秋の陽は釣瓶落とし…
真っ暗になる前にと〜
木津は諦めました。。
※西へ〜
|
ん?何??と思えば…
お茶なんですね。。
※
|
開橋を西へ〜
木津川渡って。。
|
木津は月の下。。
恨めしや〜
※脱兎の如く。。
|
ホンマにエエ天気でした!
柞の森が見えてきました。
|
夕焼風景〜
甘南備山は今回のランドマーク。。
※血のような夕焼け。
|
階段、提げて下りました。
※祝園神社
人皇第10代崇神天皇の御代、第8代考元天皇の皇子、
武埴安彦が朝廷に反逆を企て遂に此の地に於いて討伐されたが、亡魂は柞ノ森に止まり、
人民を悩ませしを第45代聖武天皇神亀年中に、
これを撲滅せんとするも鬼神の所業なれば、人力にては如何ともなり難く、
後年48代称徳天皇の御代、神力を以てこれを撲滅せよとの勅命により大中臣池田六良広綱、
宮城七良朝藤が、祝部となり、神護景雲4年1月21日の春日の大神を御勧請し創祀された。
かくして斎戒沐浴精進祈願により、(これが今に伝わるいごもりの始まり)
神力の加護の基に遂に悪霊撲滅の難業なり、広綱、朝藤の功と相俟って揃って漸く悪病平癒、
人民安堵、農家の繁栄、商工業の隆盛を見るに至った。かかる霊験灼かなる神なれば、
貞観元年正月27日に神階位従5位下を授け後年延喜式内大社に列せられる。
天正4年7月24日には天下泰平の国宣あり、院參の官人及び武門武将の尊崇深く、
社殿の修造に寄進の事がしばしば見受けられ慶応3年8月には有栖川官家より御寄進を賜り、
同官家の御祈願所となる。明治6年郷社と定められ祝園村の産土神と決定の旨達せられる。
昭和38年高松宮殿下より、有栖川宮威仁親皇殿下50年祭に当たり、同殿下の筆録を御寄進あり。
又、昭和59年4月14日、いごもり祭は京都府無形民俗文化財に指定された。
全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁より
|
盃状穴
有りました!
※この日、最後の夕日への挨拶
|
ここ凄いです!
LED電球化しています。
※一人なら
よー入らんと。。
|
JR学研都市線
祝園駅にて〜プシュっと。。
|