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東高野街道が確立されるまでに自然発生的に
生駒山の西麓を〜星田V(家康薮)(10)


山根街道をポタリ〜
GW連休初日、八重桜の満開時期〜
筍・燕・穏やかな一日!
でも、タイヤの調子が〜
まだまだサンと。
Kさんの居られる 交野応援団 1 2

※マウスポインターを置いてください。 

             撮影:平成23年04月29日  

山根道から別れて

※妙見道へ〜

桜並木なんですが〜
葉桜。。。

※家康藪を探します。
ん?

交野市妙見小学校
校内には無さそう…

※星田妙見宮

天正十年(1582)6月2日の明け方に織田信長が京都本能寺に於て、家臣明智光秀の反逆によって自害し果てたとき、
信長と同盟を結んでいた徳川家康は、少人数の近臣を連れて舶来文化の輸入地である堺に見学のため滞在していた。
当時、信長の強大な勢力によって一応近畿は平定され治安は保たれていたが、
その盟友を失った時の家康の立場は極めて微妙にならざるを得なかった。
幸い、信長死すの情報がいち早く家康のもとにもたらされると、身の危険を察知して、
すぐさま堺を退去して本国三河に帰ることとした。
星田の伝承では、星田炒見宮の参道の入口の北に「家康ひそみの薮」のことを俗に「けんしきの藪」といって、
家康が堺から逃げ帰る途次、一時この藪に潜んでいたと言い伝えられている。
家康の一行は、6月2日の深夜に星田に来て、人里はなれた人目につかないこの大きな竹薮に潜んでいた。
これには、四条畷の住吉平田神社の神主である三牧家から
星田妙見宮神主の和久田家にここまでの道案内と紹介がなされたといわれている。
そして村長の平井氏に連絡して山城方面に出る間道に精通する農民を道案内人として斡旋するよう依頼したのである。
この連絡を受けた平井家では、直ちに大釜で米を炊いて握り飯を沢山こしらえ、
緑起をかついで鶴の絵を描いた大皿に盛って提供し、信用のおける農民二人を選出して、
無事道案内の大役を果たさせたといわれている。


※筍の季節です。

側近まで居たら
隠れそうにない位の薮ですが〜



金剛生駒国定公園



なんで、堺から此処を通って三河まで〜?
まだまださんの疑問は、深まります。



あの鯉幟の右横の楠が目印で
平井家を目指します。

※当然此処を〜

鯉幟見っけ!

※他人の庭??
道ですよね〜

竹炭にて水質浄化実験中
竹薮は有りますもんね!

※牡丹の時期

星田神社から

※星田村役場跡碑
星田会館、妙音池横
妙音池は星田最古の池で
新宮山八幡宮の放生池として
作られたと伝えられている


水路も水門も

※忠魂碑
日露戦争のものでしょうね。

慈光寺さん



大峰山詣では
一大イベントだったんでしょうね。

トタン被せ〜



降星山 光林寺



山根道の面影〜

※先へ〜

庇漆喰が綺麗に〜

※迷路のようで面白い
村中の道

サクラソウも満開

※石橋も〜

向こうの屋根が気になりますが〜

何を求めてが
分からなく成って来ました〜

※うっとりと〜

偶然、この方にお聞きしたら〜
そこ、だとか〜
遠い昔の親戚筋とか…

※楠見っけ!

えっ?此処??
そう言えば小さく書いてある。。

※これでは判り難い〜

ボチボチと〜

※有りました!

 現在、平井家の北西裏には、家康が宿陣したことを記念する石碑が建っています。
 これは、大坂夏の陣から190年が経った文化3年(1806年)に、
星田の領主市橋長昭と平井家当主の平井三郎右衛門貞豊が、計画して建立したものです。
 碑文を解読すると、家康が平井家に宿陣した様子が記されています。
 当時の領主市橋長勝は、家康から後方の防備をするようにと命じられますが、防備は家臣に任せ、
自分は家康とともに戦場に出たいと申し出て許されます。
天王寺・岡山合戦で、徳川方が真田信繁(幸村)に攻められ、大混乱に陥る中でも
、長勝の部隊は静粛にして乱れることがなかったので、家康からたいそう賞されたと記され、
家康亡き後、二代将軍の秀忠からも優遇され、石高の加増があったとも記されています。
 また、長昭の代になって石碑を建てることになった経緯や旗掛松のことも記され、
後世の子孫に先祖の輝かしい業績を伝えたいとする思いが現れています。

(広報かたの より)

 平井家は、南北朝時代から星田北の庄の郷士で、江戸時代には市橋領の庄屋をつとめていました。
 先祖をたどると、三河の国の地頭職であったことから、同じ三河出身の徳川家とは、
古くから交流があったものと考えられます。
 家康ゆかりの家柄であったため、名字帯刀を許され、
武士の資格を持つなど、数々の特別待遇を受けていました。

(広報かたの より)



 大坂冬の陣では、和睦により大坂城の外堀を埋めた家康。
その4か月後の慶長20年(1615年)5月5日、再び大坂城を攻めるため、
京都の二条城を出発し、平服のまま東高野街道を南下しました。
 平井家では、あらかじめ宿陣となることを連絡されていたため、
かねてより一町四方(約3600坪)もある屋敷内の、奥書院を修繕して到着を待っていました。
 家康は、洞ヶ峠から河内に入り、午後3時ごろ星田の里正(村長)平井三郎右衛門清貞宅に入り宿陣とします。
総大将の宿に平井家が選ばれていることからも、両者の親密な関係が伺われます。

(広報かたの より)



行き止まりのような路地
向こうからは入れませんよね。

立派な玉垣が有ったのでしょうね。
やはり、大阪では家康公の
人気は少ない〜から?

※石畳があっても
不思議ではないのでしょうが〜

防犯灯札
上の札が気になります。

※真っ直ぐ行ってが〜
直線では無い。

街道沿いのコナレテ居る石燈籠〜
道標兼ねているんでしょうか?

まだまださん〜
次、行きましょう!

※此処の場所に
一時間以上居ました。
予定は未定の此の会!
東日本大震災で被災された方々に、お見舞い申し上げます。

浮ドン、かもさん、
ねずみ君、福ちゃん、
マー殿…は、
お休み。。
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