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東高野街道が確立されるまでに自然発生的に
生駒山の西麓を〜星田T(08)


山根街道をポタリ〜
GW連休初日、八重桜の満開時期〜
筍・燕・穏やかな一日!
でも、タイヤの調子が〜
まだまだサンと!

Kさんの居られる 交野応援団 1 2

※マウスポインターを置いてください。 

             撮影:平成23年04月29日  

府道は直進ですが〜

※星田駅方向〜

東に曲がります。
地元の方の言われる山根道です。

※星田小学校横目に〜

未だ農地に成りそうな〜
空き地〜住宅地なんでしょうね。

※向こうの森が
星田公園

元星田村健康診療所跡碑

※公園の横なんですが〜

石垣?

※地図で見たら神社なんですが〜
調べたら、この丘陵辺りの呼び名が新宮山で、
山頂部には八幡宮跡が有るとか
大阪夏の陣では徳川家康が本陣を構え
軍旗をかけた旗掛の松が在ったとか。

星田に入った家康は、大阪方の夜襲を想定して、かがり火をたいて警戒しました。
また、自らの旗印である白旗を、陣の南側
、標高65メートルの新宮山山頂にあった八幡宮社の松の大木に高く掲げ、兵士たちを鼓舞しました。
 この松は、「旗掛け松」として有名になり、後に記された「星田名所記」という書物でも、
八幡宮社殿の前に旗が掲げられた松が描かれています。
 現在、この場所は星田公園として整備され、山といった雰囲気はあまり感じられませんが、
公園内には、明治初年に枯死してしまった旗掛松を記念する石碑が建てられています。
 家康は、宿陣の翌日5月6日には、戦況が自軍に有利に傾いていると判断し、星田を後にします。
(広報かたの より)


新宮山の名の起こりは、天暦3年(949)当時、三宅山と呼ばれていた星田一帯の土地を石清水八幡宮に寄進し、
八幡宮の分霊を勧請して祭ったところから、石清水八幡宮を本宮と呼び、当宮を新宮と言ったことによります。

新宮山八幡宮は、室町時代は隆盛を極め、文安2年(1445)には六小社を有する大社と六支院が
権勢を誇るかのように山頂に立ち並んでいました。
しかし、その後は次第に衰退を重ね、新宮山八幡宮は明治5年(1872)に廃されて、
星田神社に合祀され、愛染律院もまた、廃寺となって現在に至っています。
「大津市光明寺所有・愛染律院梵鐘銘より」

星田公園に整備されたときに
弥生中期からの人の営みが確認されたとか。


交野市自然巡回路なんですね。

※この先道狭し看板
大好きです!

ナルホド〜
シャッターにバッテンマーク
飛び込まないでね!との無言の意思表示

※木に覆われて
地蔵様

街道道標
撮影中

※街道は左から右へ〜

段蔵にキンチョール琺瑯看板

※PETボトル飛行機
モグラ避け?
只の趣味??

光明寺サン

※鬼瓦が〜

星田の旧村の面持ち

※駐車場は元田圃

妙見山方向
山根道

※煙抜きが好きですねん!
 
大坂・妙見道

※地蔵様が街道を見守っていました。

まださんも
往時の旅人のお話を聞かれているみたい。

※黙して語らず…

大坂・妙見道

※弘化二年銘の道標

南燈明講

石臼

※街道沿いの家屋

ん?呼んでいます。

※ここにも道標〜

埋もれていますが…

※南燈明講

小さなお堂が有ったそうです。

※石燈籠
立てませんか?

妙見道

※背高蔵

路傍の石

※地蔵様

星田村に反応しました〜^^;

※団扇サボテンの樹

存在感のあるニャンこ〜
東日本大震災で被災された方々に、お見舞い申し上げます。

浮ドン、かもさん、
ねずみ君、福ちゃん、
マー殿…は、
お休み。。
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