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戦国時代後半から上ヶ原新田、六軒新田など
新しい緩傾斜地や六甲山からの中位段丘層に
新田開発を盛んに行ったようです。
でも、寛永18年(1641年)に起きた旱魃の際、
社家郷(しゃけごう)村(西宮神社を守る家々の意味:広田、越水、中村、西宮郷)の農民は、
「社家郷山(仁川上流域にある社家郷村の持ち山)から出る水は社家郷村のものである」
と主張して自分の村に仁川の水を引こうという大胆な発想をしました。
水利慣行は昔から大変強く、仁川の水を水系を変えて夙川に導くことは大変なことで、
工事も岩山を越えて夙川の支流・水分け谷までの水路を作らなければならない難工事でした。
それまで仁川の水を利用していた下流の農民が工事を阻止しようとするのは当然のことです。
昼、社家郷村の人々が水路工事をすると、
夜ごと仁川下流の村人が水路を埋めるという繰り返しでした。
(HP:西宮の新田開発と用水の歴史参照)