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少し前に 城東探偵団で訪れた難宗寺 この日は、内部にもお邪魔して〜 資料的に見てくださいな! 太鼓楼と大銀杏 大阪府の天然指定物指定(昭和50年3月31日指定) 守口市保存樹木指定8号(昭和55年2月15日指定) 推定樹齢 約400年 最大直径 1.5m 樹木高さ 25m いちょう(銀杏)は水分が多く、燃え難いので大きい建物の防火用に広く活用されています。 この木は、来迎寺開山実尊上人お手植え(約650年)蓮如上人(約500年)などの説がありますが、不明です。 なお、いちょうには雌雄2種ありますが、この木は雄木で実はなりません。(来迎寺HPより) ※ |
本瓦の曲線が〜 ※・宗名:浄土真宗本願寺派(俗に西本願寺派) ・開創:文明9年(1477)第八代宗主蓮如上人のご勧化による(昭和52年開創五百年慶賛法要実施) 文明7年蓮如上人は、戦乱の越前の吉崎御坊から河内国茨田郡中振郷出口(現枚方市)に移られ、 坊舎に引き入れた水路から淀川を利用し、河内、大和、和泉、摂津の布教に過ごされました。 守口へは堺への途中立ち寄られ、この御堂にて真宗の教えを説かれ、その教えに感動した来迎衆が全員揃って帰依しました。 寺史によると文明9年とされています。 (蓮如上人は文明10年山科本願寺完成し山科に移られました)(来迎寺HPより) |
静かな境内 大銀杏に涼しい風が〜 ※磨きぬかれた廻り廊下 |
本堂に入れてもらって。 ※欄間も見事! |
墨痕鮮やか! ※見事な一室 |
立派な香炉・香合 ※明治天皇玉座の天井 |
明治天皇玉座を見学させて頂きました。 慶応4年1月(この年の9月に明治と改元)鳥羽伏見で敗れた幕府軍は、守口を通る街道を大阪城に敗走しました。 それを追う形で天皇の大阪親征があり大行列は3月20日京御所をたち、初日は八幡の行在所。 翌21日夜9時過ぎ激しい雨の中を難宗寺行在所に到着されました。 西本願寺門 主は水路到着しお迎えされました。 翌日は晴天の中ご出発。 大阪の仮御所となった北御堂(津村別院)に入られました。 この御親征には大阪遷都の計画もあり、三種の神器や文武百官も同行し、守口は一夜の帝都となりました。 (賢所は盛泉寺に) (来迎寺HPより) ※賢所(かしこどころ/けんしょ)とは、内裏において神鏡を奉安するための場所。(Wikipediaより) この寺はその日のみ、天皇のいらっしゃる行在所(あんざいしょ)となりました。 明治天皇(1852〜1912)は,慶応4(1868)年3月21日, 親征・海軍検閲のため大坂行幸の途中,この地真幡寸神社(城南宮)で昼食をとり, その日は石清水八幡宮に宿泊した。 閏4月7日大坂を出発し,水路八軒屋より守口に上陸し,淀城で宿泊。 翌日鳥羽で休憩後京都へ還御した。 ※大正天皇と難宗寺: 明治43年、淀川架橋大演習の視察にご来阪の皇太子殿下は、 父陛下の若き日のご苦労を偲びたいとのご希望から、 難宗寺行在所に仮泊されました。 京都から開通間のない京阪電車で堂脇橋の仮説駅にて下車され、 難宗寺に入られました。 この時、難宗寺境内には電灯(アーク灯)が点灯され、真昼のような明るさでした。 これは守口での最初の電灯です。この年は高徳秋水の大逆事件があり警戒は特に厳重でした。 ・秩父の宮様ご休憩:昭和8年工兵隊の架橋演習視察に見えた秩父宮は、 父君の大正天皇のゆかりの深い難宗寺へ休息に立ち寄られ、昼食をされました。 (来迎寺HPより) 思ったより小さな風呂桶です。
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此処でくつろがれて 静かな庭を見られたの? ※ |
旧の飾り瓦 菊の御紋! ※ |
少しクタビレテいますか〜 |
破風も立派! ※大銀杏 |
賢所に成った盛泉寺 ※賢所(かしこどころ/けんしょ)とは、内裏において神鏡を奉安するための場所。(Wikipediaより) |
難宗寺(西御坊)に対して盛泉寺(東御坊)と呼ばれています。 元和元年(1615年)の兵火…大阪城夏の陣ですね。 ※ |
この時には未だ有りましたが〜 浮ドンと訪れた時には… マクドナルドになってました。。。 |
大塩平八郎縁の書院が有ったんですと〜 元、白井家の隠居所… ※あ〜あ これが最後だったんですね。 |