天見川上流部 赤い橋と大きな楠が~ ※大きな黄葉した木も~ |
河内長野市観光スポット みたいですが~ ※渡りに行きます~ |
神社サンが在ります。 ※御神木 楠も~ |
案内板 ※ |
鳥居は川に面している~ ※ |
天見川下流部~ 植林の範囲が分かりますね。 ※ |
境内地にお邪魔します~ ※ |
この八幡神社は、石清水八幡宮(京都)の御神体を勧請し、 この地に社殿を造営したことに始まります。 鎌倉時代には社殿の修理が行われ、延元5年(1340)に 八幡神社のために鉄製湯釜が造られていることから、 創建時代は古いと考えられています。 この湯釜は、延元5年(1340)の銘のある古いもので、 府の文化財に指定されました。 さらに毎年、1月6日に近い日曜日に、石清水八幡から勧請した日として 同神社の氏子により対岸の大杉(勧請杉)と川をはさんだ柿の木の間に しめ縄を架ける神事があります。 その他、境内には樹齢300年を越えると思われる「いちょう」の大木があり、 こちらは大阪府の天然記念物に指定されました。 (河内長野市観光協会HPより) ※拝殿舎 |
扁額 ※河内鋳物師 前には~ |
宝物が見られます。 ※南朝(なんちょう)または吉野朝廷(よしのちょうてい)は、 日本の南北朝時代に京都以南の大和国の吉野(奈良県吉野郡吉野町)、賀名生(同県五條市西吉野町)、 摂津国の住吉(大阪府大阪市住吉区)を本拠とした大覚寺統の後醍醐天皇に属する朝廷。 1337年(和暦との対応上は1336年)から1392年まで56年あまり存続し、 叙位や元号の制定など政権としての機能を有した。 奈良県の南部に位置する吉野に拠点を設けたことから京都にあった北朝に対して南朝と呼ばれている。 これは後世に成立した呼び名ではなく、当時の日記などの記録においても 「南朝」「南方」などの名称で呼ばれていた。 また、吉野が古来より「南山」とも称された金峯山の山中にあったことから、 「南山(=吉野)の朝廷」という意味もある。そのため、京都にある北朝の存在を認めない 南朝の人々の間においても後者の意味により、「南朝」「南方」などの呼称が用いられた。 なお、後醍醐天皇の在世中の行宮は吉野行宮にあったものの、 以後は南朝の興隆・衰退に従って大和・河内・摂津・山城などの諸国に行宮が存在した。 (Wikipediaより) |
河内鋳物師 我が家の父も鋳物師でした。 軽合金ですがね。 ※手水鉢 |
こちらの柿の木から 対岸の杉に勧請綱が張られるんですね。 ※石段上に 本殿舎 |
本殿舎前狛犬 阿 ※吽 |
奥に大イチョウが有りました。 ※残念ながら落葉後ですが~ |
黄金の絨毯~ ※ |
気に成りますよね~ 黄に…樹が~ ※見上げて~ |
御神木の楠も~ ※ブナ? ミズナラ?? |
紅葉の絨毯踏みしめて~ ※ |
柿の木から 銀杏の木見渡して… ※勧請綱 切れてますね~ |
柿の木の根元にも~ |
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