自動車にての帰り道で
もう一社の前の月光寺さん
※鐘楼門がお洒落!
|
山全体が御神体とか~
※美具久留御魂大神(大国主命)を主祭神とし、
左殿に天水分神(あめのみくまりのかみ)、弥都波迺売命(みずはのめのみこと)、
右殿に国水分神(くにのみくまりのかみ)、須勢理比売命(すせりひめのみこと)を配祀する。
社伝によれば、崇神天皇10年(紀元前88年)、この地にしばしば大蛇が出没したので、
天皇自ら視察して「これは大国主命の荒御魂によるものである」と言い、
出雲振根に杵築大社から生大刀・生弓矢を勘請させ大国主命の神体として祀らせたのに始まるという。
崇神天皇62年、丹波国氷上郡の氷香戸辺が神懸かりして「玉萎鎮石(たまものしずし)。
出雲人祭(いずもひとのいのりまつる)真種之甘美鏡(またねのうましかがみ)。
押羽振甘美御神(おしはふるうましみかみ)底宝御宝主(そこたからみたからぬし)。
山河之水泳御魂(やまがわのみくくるみたま)静挂甘美御神(しずかかるうましみかみ)。
底宝御宝主也(そこたからみたからぬしなり)」と宣託した。
天皇は直ちに皇太子の活目入彦命(後の垂仁天皇)を当社に遣わして祀り、
「美具久留御魂(みくくるみたま)」の名国史では、嘉祥3年(850年)にみえる
「河内国和爾神」の神階が従五位上に進んだと見えるが、
これを当社に比定する説がある。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では、河内国石川郡に「美具久留御玉神社」と記載され、
式内社に列している。河内国二宮、石川郡総社と称されたともいう。
楠木正成は、建水分神社(上水分社)とともに当社(下水分社)を楠木氏の氏神として崇敬し、
社領の寄進や社殿造営を行った。天正13年(1585年)、豊臣秀吉の根来寺攻めの兵火により社殿を焼失し、
万治3年(1660年)に社殿を再建した。
明治維新後、明治5年(1872年)に近代社格制度において郷社に列している。を贈り、相殿に四神を配祀したという。
(Wikipediaより)
|
美具久留御魂神社(みぐくるみたまじんじゃ)は、大阪府富田林市にある神社。
式内社で、旧社格は郷社。大阪みどりの百選に選定されている。
※お邪魔して~
|
扁額
※
|
見返って~
※参道の向こうに二上山!
|
御神体山
境内案内図
※社務所
|
神人和楽碑
※割拝殿です。
|
水分宮銘
手水鉢
※
|
杯状穴が沢山~
※
|
いたるところに~
※所狭しと~
|
しん‐じゅ【神呪・神咒】
(古くは「じんしゅ」とも) 霊妙な呪文。神霊な呪文。
(コトバンクより)
※木橋の欄干
何処のでしょうか?
|
割拝殿舎前の狛犬
阿
※吽
|
|
大きな獅子頭
※
|
登山道
※割拝殿から見返れば~
|
参道~
※
|
参道の狛犬
阿
※吽
|
奉納石燈籠
|
本殿舎の懸魚
鳳凰~
見事です!
※扁額
|
水の神
龍の透かし彫りも綺麗!
※裏は波
|
本殿舎前の狛犬
阿
※吽
|
菊花紋瓦
※
|
本殿舎
※
|
境内摂社
※百度石
多くの玉垣
|
摂社 白雲宮
※
|
参道の途中に
※稲荷社
|
支子稲荷神社碑
※
|
名残の紅葉
※皇紀2500年記念碑
|
※
|
祖霊殿
※
|
嘉喜門院御廟所
嘉喜門院(かきもんいん、生没年不詳)は、南北朝時代の女院・歌人。
南朝後村上天皇の女御にして、長慶天皇の生母と推定されるが、
加えて後亀山天皇の生母でもあるか。
正平23年(1368年)の後村上天皇崩御の後、女院号宣下を受け、間もなく落飾した。
近世の南朝系図によって、関白近衛経忠の女で、
名は勝子(かつこ/しょうし)とされることが多いが、それを裏付ける史料はない。
ただ、関白二条師基の猶子となったことはほぼ確実である。琴の名手と伝えられる。三位局とも。
(Wikipediaより)
※橘忠照彰功碑
ググっても判らない~
|
名残の紅葉
※大嘗祭記念事業碑
|
もう一度
拝殿舎前の狛犬
阿
※吽
|
みぐくるん
イメージキャラが有るんですね。
※
|
松は剪定済み
水分宮の石燈籠
※東宮●●
|
●ことば神の道
※
|
長屋門ですね。
※見返って~
|