またしても自動車移動して~ 富田林市に! ※ 東高野街道(ひがしこうやかいどう)とは、かつて京都から高野山への参詣道として用いられた街道。 数ある高野街道のうち、いちばん東側に位置する道筋。 八幡(京都府八幡市)で京街道 (大坂街道) と別れ、河内国の東部を通り、 長野(大阪府河内長野市)で西高野街道と合流し、 以南は高野街道として紀見峠、橋本、高野山へ至る。 いつ頃に形成されたかは定かでない。 既存の集落を経ず、出来るだけ直線になるように通されており、自然発生的に形成された道ではなく、 計画に基づいて建設された古代道路であると言われている。 淀川水系の河川や、かつて存在した巨大な河内湖(深野池)周辺の湿地帯を避けて 生駒山地の麓を通り、河内国府(現在の藤井寺市)付近で大和川を越えると石川の左岸に沿って通った。 平安時代には駅が設置され、京と河内国府を結ぶ官道としても重要であったとされる。 その後は官道としての重要性は薄れたものの、仏教信仰の一般化に伴い、 高野山参りが盛んになると参拝道として賑わうようになった。 現在では、府道長尾八幡線、枚方バイパス、府道枚方交野寝屋川線、府道枚方富田林泉佐野線と 国道170号(旧道)各道の大半に相当または平行する。 (Wikipediaより) |
川西小学校 旧校舎?講堂? 佇まいが良いですね。 ※二宮尊徳像も~ |
浅川堤(あさかわつつみ)は、大阪府富田林市谷川町から甲田南端にかけての 石川西岸に築堤された堤防(石川甲田堤)である。 天領甲田村(宮甲田町)の庄屋を務めた浅川八郎を中心に私財を投じて築堤されたため、浅川堤と称される。 甲田村の東を流れる石川西岸の附洲は甲田村の流作場であり、江戸時代を通じて度々開墾が試みられた。 延宝年間には、開墾を試みた甲田村と石川対岸の西板持村との間で争論となり、 幕府により甲田村に非があったとして庄屋と年寄がハリツケの刑を受けている。 また、元禄年間には伊勢神戸藩領向田村(甲田)の庄屋水郡家によって堤防が築かれ、 その一部20間ほどが今も残り、内堤と称されている。 しかし、度重なる石川の氾濫によって流作場は大きな損害を受け、 浅川らによって慶應年間に堤防が築造されるまで長らく放置されていた。 文久2年に浅川八郎の祖父であった八左衛門が流作支配人として大津御役所に開田の絵図面を提出しており、 浅川八郎による築堤はその遺志を継いだものと思われる。 浅川堤は谷川町から甲田南端までの686間半にわたって築かれ、東高野街道と石川間に位置する 字上深・下深の両地区13町7畝8歩の開墾地で安定した耕作を可能にした。 うち、水郡家が過去に開墾した5町半は水郡家に戻され、残り8町余は浅川家名義となりその後耕作者に売却された。 浅川八郎翁之碑に記された良田八町余とはこのことである。 今道萬造によって明治20年頃に記録された錦の織物名跡考には「浅川堤」の記載があり、 その功績が称賛されている。明治35年には甲田村(かつての天領・神戸藩領であった宮・南甲田・北甲田)と 富田林町谷川を挙げて記念碑が建造され、現在も富田林市の小学校社会科資料集に取り上げられるなど、 開墾の功績は忘れられていない。 築堤から記念碑の建造をめぐって、浅川家と水郡家の間で争論が生じ、 明治40年に錦部郡北部諸村の産土神であった水郡神社の社名が錦織神社に改称される一因となった。 (Wikipediaより) ※ |
郷社なんですね。 近代社格制度(きんだいしゃかくせいど)とは、明治維新以降、『延喜式』に倣って、 新たに神社を等級化した制度である。 第二次世界大戦後に廃止されたが、「旧社格」などの名称で神社の格を表す目安とされる。 (Wikipediaより) |
一の鳥居と二の鳥居 ※扁額 |
錦織神社(にしきおりじんじゃ)は、大阪府富田林市宮甲田町にある神社。 旧社格は郷社。 ただし地元では、錦織を「にしこり」「にしこおり」「にしごり」等と呼んでいる。 神社のある地域は、太古は「錦部(にしごり)部」と呼ばれていたようで、 旧くは織物の技術を持つ人々が百済より渡来し住みついていたとされている。 神社は錦部部(錦部氏)の氏神である。 創建年代は不明であるが、昭和10年(1935年)の本殿修理の際に地中から 平安時代中期の丸瓦・平瓦が発見され、そのころかそれ以前に創建されたと推定されている。 神社は大和川支流である石川の谷に位置することから、千早赤坂村の建水分神社や 富田林市宮町にある美具久留御魂神社とともに、古くから河内国の三水分(みくまり)社として 広く信仰を集めていた。 明治以前には水郡神社や水郡天王宮と称していたが、1907年(明治40年)に現在の社号に改称した。 (Wikipediaより) ※ |
天誅組記念碑 参道脇に天誅組記念碑が設置されている。 これは幕末当時に甲田村の大庄屋であった水郡善之祐が天誅組の変において、 天誅組河内勢の中心人物として息子の英太郎とともに決起したことを示すものである。 決起から100年後に、水郡家の子孫らによって建立された。 (Wikipediaより) ※多くの方々が河内からも 志士として参加されたんですね。 |
花と咲き花と散りにし 人々の若き命を 誰が惜しまざる ※昭和38年 由来記 |
※和田佐市 1832-1863 幕末の尊攘(そんじょう)運動家。 天保(てんぽう)3年生まれ。河内(かわち)(大阪府)の農民太八の長男。 水郡善之祐(にごり-ぜんのすけ)の従者となり, 文久3年天誅(てんちゅう)組の大和挙兵にくわわり,同年8月死去。32歳。名は信勝。 (コトバンクより) |
昭和12年の改築記念碑 |
手水鉢 杯状穴は見当たらない ※踏石に小さい杯状穴が~ |
百度石 ※ |
地面に埋め込まれていた石碑 伏山 ※須賀 |
向田・甲田 ※ |
錦郡 ※ 地車の駐車位置ですよね~? |
拝殿舎前狛犬は大き目 阿 ※吽 |
迫力ある狛犬 阿 ※吽 |
割拝殿から覗く本殿舎 此処も奇麗に~ ※おおっ! 思わず声が出ます。 檜皮葺の立派な本殿舎 |
扁額 |
錦織神社 3棟 本殿 摂社天神社本殿 摂社春日社本殿 本殿は正平18年(1363年)の建築である。 入母屋造三間社、正面千鳥破風、軒唐破風付き、檜皮葺きとする。 正面の向拝には丸みを帯びた唐破風を造り、屋根の斜面正面につけられた三角形の千鳥破風が唐破風の上に位置する。 こうした屋根形式は室町時代の神社建築としては珍しく、貴重なものとされる。 この建築様式は江戸時代に建築された神社に多く採用され、「錦織造り」と呼ばれ、 日光東照宮にも影響を与えたといわれている。 両摂社は小規模な流造二間社で、天神社には文明12年(1480年)の棟札があり、 春日社も同じ頃の建築と推定される。本殿、両摂社とも国の重要文化財に指定されている。 (Wikipediaより) ※ |
うっとりとします~ ※ |
摂社 春日大明神 ※摂社 天神社 |
摂社 金比羅宮 石川の水運も~ ※本日の秀逸! 狛犬の顔が良い!! |
陶器の顔が残念な~ 阿 ※吽 |
見飽きません~ ※ |
エエですね ※投げ賽銭除けか? シートが施されてます。 |
弁天様? ※平成16年に大造営されたんですね。 |
PLの塔も~ 鎮守の森の向こうに |
拝殿舎より見返って~ 長い参道はかつて流鏑馬が行われており馬場先と呼ばれていた。 (Wikipediaより) ※神輿と地車の模型が~ |
拝殿舎内絵馬 武者絵と高砂 ※慶応期の武者絵 |
戸隠山鬼女紅葉退治之傳? ※武者絵 |
天誅組図? ※武者絵 |
武者絵 ※ |
相撲番付 西の大関に綾川の文字が~ 綾川 五郎次(あやがわ(あやかわ) ごろうじ、1703年(元禄16年)? - 1765年3月14日(明和2年1月23日))は、 下野国(現:栃木県)出身の元大相撲力士。第2代横綱。 下野国(現:栃木県)出身で、横綱力士碑には「享保2年(1717年)に大関になった」と書かれているが、確証は無い。 実際には、それより後の寛保年間(1741年-1744年)に活躍したようで、 寛保3年(1743年)5月に大坂・堀江で行われた興行では「東小結」、京都・二条河原で行われた興行では「西関脇」で 出場したと記録されている。二条河原での興行では当時最強・無敵を誇った阿蘇ヶ嶽桐右衛門を破ったことで、 周囲から「綾川さま、綾川さま」と褒め称えられたという。綾川は江戸相撲の力士だが、 珍しく京都相撲・大坂相撲でも人気があったという。 小結、関脇では上記のように出場したという記録があるが、綾川は「大関として出場した」という記録が残されていない。 それでも綾川が歴代横綱に加えられているのは、寛政元年(1789年)に谷風梶之助 (2代)・小野川喜三郎に対して 吉田司家が横綱免許を授与する際に、寺社奉行へ提出した書類に「過去に綾川、 丸山と申す者に(横綱)免許を与えたが、記録は火災で失われた」と記載されていることが根拠である。 (Wikipediaより) ※ |
昭和17年の大東亜●●●●祈願 ※平成5年の皇太子ご成婚記念 |
遥拝所 伊勢神宮でしょうか? ※ |
馬場先 |
参道脇に~ |
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