次の神社に
自動車で移動して…
駐車場には多くの地元の方の車が~
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なにわ型狛犬
阿
※吽
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お邪魔して~
※此処も八幡様?
燈籠竿に~
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拝殿内に…
正月準備?
※多くの方が作業中でした。
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錘で縄を綯うんですね。
※氏子総出?
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もう一段上って~
※見返って~
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本殿社はカラフルに彩色されて~
三間社流造(さんげんしゃながれづくり)、梁間二間、正面三間にわたって
一間の総向拝(ごはい)をつけ、屋根は銅板葺としたものである。
正面では浜床を設け、木階五級を据え、擬宝珠(ぎぼし)柱をたて、登高欄(こうらん)で縁に昇る。
縁は正・側面三方に榑縁(くれえん)を張り、側面では奥に脇障子をたてる。
向拝柱は面取角柱で、三間にわたり大虹梁(こうりょう)を架して両端を象鼻とし、
柱上で連三斗(みつと)組とする他は枠肘木(わくひじき)を組み、中備(なかぞなえ)に蟇股(かえるまた)を配する。
中央の蟇股は、中の彫刻が輪郭からとびだしている。
正面では成りの高い大虹梁を渡し実肘木(さねひじき)も一連に通しているので、鈍重な感じが強い。
内部は前後にわけて前面を外陣(げじん)とする。
内外陣境では、上・下長押(なげし)を打ち、三間にわたり板扉を入れるが、内陣(ないじん)は仕切らない。
祭神には誉田別尊(ほむだわけのみこと)・足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)・
息長足媛尊(おきながたらしひめのみこと)を祀る。
本殿の建立年代は擬宝珠銘の元禄十六年(一七〇三)とみるのが様式的にみて妥当のようで、
当社に残される承応三年(一六五四)の上葺棟札は現本殿とは無関係である。
『大阪府全志』第四巻によれば元禄年中に堺の谷善右衛門が社殿を修復したとあるが、
この擬宝珠銘はそれを示すものとみられる。
元来当社は寺院と深い関係をもち、寺の鎮守のようなものであったと思われる。
保存状況はよく、当時の典型例として貴重である。
参考文献:河内長野市役所(1973)『河内長野市史 第十巻 別編二』
(河内長野市HPより)
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拝殿舎の向こうにはNT
※生駒山~葛城山
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作業を上から~
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微かにPLの塔も~
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祠の
※内部には~
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本殿舎軒下に奉納絵馬
※極彩色ですね。
元々は、こんな色でしょうかね?
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奥の院への道かと思えば~
地図では、この向こうにはNT
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作業を撮影していたら~
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神社由来記
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手水鉢
※楠公神社由来
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加賀田神社本殿は元禄16年(1703年)に再建され、以来加賀田村の人々の信仰に支えられ護持
され、元禄時代の神社建築を今に伝え、昭和56年には河内長野市の「指定文化財」の指定を受けてい
ます。その装飾絵画は明治初期に補修され、河内長野市滝畑の天神社本殿、五条市三在の龍池神社の御
霊神社本殿などの絵画と意匠、配色、顔料等が類似し、明治時代前期の様式を今に伝える貴重な文化遺
産となっています。この貴重な彩色絵画が長年の風雨にさらされ、剝落著しく、全体の損傷は、今この
時期を逃しては修復不可能な事態に至るのではと思われます。
(加賀田神社HPより)
※補修された経緯を教えていただきました。
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祢宜さん感謝です。
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他にもいろいろと、
東向きの神社は珍しいとも~
※本殿舎の雨戸的な物でしょうか?
聞くのを忘れてました。
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摂社
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昔の絵図の説明も~
感謝です!
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多くの奉納絵馬の目録
※
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白馬図
※神功皇后と武内宿祢図
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御礼を伝えて~
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北側の参道
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参道脇の狛犬
阿
※吽
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お顔も凛々しく
阿
※吽
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一の鳥居
※紅葉が綺麗に~
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見返って~
桜並木が綺麗に!
春も良いかも~
※絵馬はレリーフ
戦時中に供出されたんでしょうか?
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