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令和五年、2023年!ウクライナでのロシア軍との戦は長期化…
新型コロナは二類から五類へ~と言うことはインフルエンザと同じ…
自転車乗らずに気に成る和泉山地辺りをブラリ~

和歌山県岩出市根来(旧和歌山県議会議事堂)~16

だからいつもの神社・仏閣と路地・旧村探し~
6輪ポタ?~いや膝栗毛
浮ドンとまだサンと歩きポタ!
※マウスポインターを置いてください。 
                                           撮影:令和五年05月03日
                                           UP日:令和五年06月20日


旧和歌山県議会議事堂
一乗閣(いちじょうかく)は、和歌山県岩出市根来(ねごろ)にある歴史的建造物で、
かつての和歌山県議会議事堂である。
建築概要
希少性が高い19世紀の大型和風建造物で、吹き抜けの議場の格子天井や玄関周りの彫刻など
細部の装飾に至るまで和の様式で統一されている。

竣工 - 明治29年(1896年)
構造 - 木造、地上2階建、入母屋造
建築面積 - 937m2
延床面積 - 1,523m2
棟高 - 12m
総工費 - 34,200円
備考 - 国の重要文化財(2017年7月31日指定)、ヘリテージング100選の一つ
(Wikipediaより)



和風役所建築
前には~
01 02 03

※破風内に懸魚・蟇股…
木彫の良い職人がいたんですね。

和風ですね。

※道の駅 ねごろ歴史の丘 花笑み館が併設され~

この丘には根来寺境内から寺内町の様相~

※室町時代末期の最盛期には坊舎450(一説には2,700とも)を数え一大宗教都市を形成し、
寺領72万石を数え、1万余の根来衆とよばれる僧兵軍団を擁した。
また、根来寺僧によって種子島から伝来したばかりの火縄銃一挺が持ち帰られ、僧兵による鉄砲隊が作られた。
織田信長とは石山合戦に協力するなど友好関係を築いたが、
信長没後、羽柴秀吉と徳川家康・織田信雄の戦い(小牧・長久手の戦い)においては徳川方に通じ、
留守であった秀吉方の岸和田城を襲ったほか、南摂津への侵攻を図ったことで秀吉の雑賀攻め(紀州征伐)を招くこととなった。
根来寺は、鉄砲の生産地であった近在の雑賀荘の鉄砲隊とともに秀吉方に抵抗するが各地で敗れ、
1585年(天正13年)、秀吉軍は根来寺に到達。
大師堂、大塔など数棟を残して寺は焼け落ちた。
根来寺における戦いでは寺衆はほとんど抵抗を行わなかったため焼き討ちの必要性は薄く、
炎上の原因は、秀吉による焼き討ち、寺衆による自焼、兵士による放火など多説あるが、定かではない。
焼け残った大伝法堂は秀吉が信長の廟所として京都の船岡山に建立する予定であった天正寺の本堂にするために解体して持ち去っていった。
しかし、天正寺は建立されず、部材は大坂の中津川沿いに持ってきたまま放置された。現在の大阪市此花区伝法である。
(Wikipediaより)



半地下倉庫が有ったそうです。

※発掘調査されたんですね。

大きな壺
備前焼
大谷焼



打ち壊された多宝塔



石垣には排水溝



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