当神社は旧田中村8社の中、日吉神社、一之宮神社、若宮神社、中村神社を昭和20年に日吉神社の社地に併せ祀り 翌21年東田中神社と改稱したものであり、本殿4社が並んで居たが、旧中村神社、若宮神社の2殿が焼失、 台風に依り倒壊し復舊出来ず現在の2殿となって居る。 第一殿、日吉神社は山王権現とも云い、打田、上野、花野、中井阪、馬場、西大井、赤尾、黒土、竹房、窪12ヶ村の産土神で 田中荘8社の1にして総社と云う。 日吉神社は社伝によれば天長年間、慈覚大師勅命を蒙り江州坂本より勧請す、因て祭礼の式は坂本の如し、又『源平盛衰記』に白く、 「嘉保二(1095)年叡山の衆徒訴訟の事に困りて洛中に押来り陣頭へ参る後二条関白師道公中務頼治に命じ、 法に任せて禦ぐべしと下知せられければ、頼治禦ぎて疵を蒙る神民六人、死する者二人祢宜友實が背に矢立ければ社司寺官皆逃れ帰りぬ 夫より一山の衆徒関白殿を呪咀しけるとぞ、此に固りて関白殿山王権現の崇り有りて重痛を受け苦しみ 御母并に北政所歎き給い、様々の御祈願あり、 その頃関白殿の荘園なれば日吉山王へ寄進し給う」 又、或説に「此地に山王を祀り来りしに、嘉保二(1095)年より此荘を叡山に寄附せられしより、 社益々繁栄して社殿等壮麗を極め荘中八社の総になるに至る 社田四町九反ありしが天正の兵火により、社殿、神宝文書等悉く焼失し、神田、神事も皆廃絶す、 其の後氏子等再造営し古に復するに足らざるも祠宇頗盛りなり」 明治6年村社に列す。 第二殿、一之宮神社(竹房神社・前ノ神)は元田中村大字竹房に鎮座ありしを、合併したもので県文化財に指定されている。 竹房・黒土・赤尾3ヶ村の産土神である。 荘中8社の1であり『本国神名帳』那賀郡地祇部に「従四位上前ノ神」とある。 第三殿、中村神社(中の宮)焼失のため社殿跡のみ、荘中8社の1であり、打田・上野・窪・東大井4ヶ村の産土神である。 第四殿、若宮神社(上の宮・若宮八幡宮)台風により倒壊し社殿は現存せず跡地のみ、荘中8社の1にして 、東大井・赤尾・黒土・竹房・窪・打田6箇村の産土神である。 (和歌山県神社本庁HPより) ※前には~ |
拝殿舎前の文化期の石段 此処は前に~ ※波の図案化 |
本殿舎 ※境内見返って~ |
袖障子も木鼻も 木彫がされています。 色彩も~ ※ |
開運招福 兎年 ※手水舎 |
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