ここも前に~ ※鐘楼 |
大きな鐘 ※ |
天武天皇の願成就寺 ※脇には日根神社サン |
国際かんがい排水委員会(ICID)日本国内委員会は、世界かんがい施設遺産候補施設として、 泉佐野市日根野土地改良区が申請した「井川用水(ゆかわようすい)」について、 ICID本部へ申請することが決定されましたのでお知らせいたします。 井川用水は約800年前から存在するかんがい用水路です。 水路の成立時期には諸説ありますが、1316年に描かれた村の絵図から、 既に部分的に水路が活用されていたことがわかります。 貴族の領地であった日根野地域は、当時は荒野が広がり、田地の拡大が重要な課題でした。 井川水路は、領地の上流を流れる川から取水し、全長約2.9㎞、最後はため池の十二谷池へと流れ込みます。 井川水路の開発により、この地域の田地面積は飛躍的に拡大しました。 取水口からため池までの高低差は約3mであり、わずかな高低差を活かした灌漑施設の開発は当時の高度な土木技術を示しています。 井川用水は当時の流路をほぼ変えることなく、現在も田地を潤しています。 日本国内において、現在も利用されている農業用水路で、国の史跡に指定されているのは井川用水だけであり、 中世からの開墾の歴史を知ることができる貴重な遺産です。 (日本遺産 日根荘HPより) ※ |
九条家(くじょうけ、正字体:九條)は、藤原北家の嫡流の一つである公家、華族。 公家としての家格は摂家、華族としての爵位は公爵。 五摂家筆頭の近衛家と並ぶほどの高い格式を持った家で、 やはり摂家の二条家と一条家はこの九条家の分家にあたる。 (Wikipediaより) ※手水鉢 |
立派な随神門 ※正面に拝殿舎 |
拝殿舎内に絵馬 女武者絵 巴御前~ 源義仲? ※龍と仙人 |
地元の消防団銘 ※木の根 |
社殿内木製狛犬 阿 ※吽 |
本殿舎 ※正面には~ 迦陵頻伽(かりょうびんが、迦陵頻迦、迦陵嚬伽)は上半身が人で、下半身が鳥の仏教における想像上の生物。 サンスクリットのカラヴィンカ(kalaviṅka)の音訳。『阿弥陀経』では、共命鳥とともに極楽浄土に住むとされる。 殻の中にいる時から鳴きだすとされる。その声は非常に美しく、仏の声を形容するのに用いられ、 「妙音鳥」、「好声鳥」、「逸音鳥」、「妙声鳥」とも意訳される。 また、日本では美しい芸者や花魁(おいらん)、美声の芸妓を指してこの名で呼ぶこともあった。 一般に、迦陵頻伽の描かれた図像は浄土を表現していると理解され、同時に如来の教えを称えることを意図する。 中国の仏教壁画などには人頭鳥身で表されるが、日本の仏教美術では、有翼の菩薩形の上半身に鳥の下半身の姿で描かれてきた。 敦煌の壁画には舞ったり、音楽を奏でている姿も描かれている。 (Wikipediaより) |
木鼻は龍 ※ |
牡丹? 菊? ※脇障子 仙人像? |
立派な檜皮葺屋根 ※お邪魔してます~ |
本殿舎前狛犬 阿 ※吽 |
禊場 ※神宮寺 |
鎌倉時代、文永8年(1271年)建立。高さ約10m。 屋外にある木造多宝塔で国宝・重要文化財に指定されているものの中では日本最小。 石山寺塔、金剛三昧院塔とともに日本の多宝塔の三名塔の一つとされる。 初層内部には大日如来坐像(大阪府指定文化財)を安置する。 (Wikipediaより) ※ |
慈眼院(じげんいん)は大阪府泉佐野市日根野にある真言宗御室派の寺院。 山号は大悲山、寺号は願成就寺。近世末までは、隣接する日根神社の神宮寺であった。 国宝の多宝塔は石山寺塔、金剛三昧院塔とともに日本の多宝塔の三名塔の一つとして知られる。 また境内が「日根荘遺跡」の一部として国の史跡に指定されている。 仏塔古寺十八尊第十二番。 伝承によれば、天武天皇2年(673年)、天皇の勅願寺として、 井堰山願成就寺無辺光院の名で覚豪阿闍梨により開創され、 奈良時代の天平年間、聖武天皇の勅願寺となり、寺領1千石が加増されたという。 その後、弘仁6年(815年)、 空海(弘法大師)によって多宝塔、 金堂をはじめとする諸堂が再興されたと伝える。 南北朝の正平8年(1353年)、戦火を受けて焼失。 その後、後村上天皇と後亀山天皇の勅命により再興された。 慈眼院の位置する日根荘(ひねのしよう、日根野荘)は、五摂家の1つである九条家の荘園であった。 文亀元年(1501年)から4年間、前関白の九条政基が日根に滞在して領地の直接経営にあたり、 日記「政基公旅引付」(宮内庁書陵部蔵)を残している。 天正13年(1585年)には豊臣秀吉の根来寺攻めの兵火を受けて、金堂、多宝塔を除いた全山が焼失。 その後慶長7年(1602年)、豊臣秀頼によって伽藍の再興が始められ、 奥之坊、山之坊、明王院、戒躰院、稲之坊、中之坊、下之坊、東方寺、上之坊、 明神社、観音堂、毘沙門堂、護摩堂の堂宇が建立された。 寛文年間には岸和田藩藩主岡部氏により修復が行われ、寛文5年(1665年)、 中之坊が仁和寺の性承門跡から現在の院号「慈眼院」を賜り、 仁和寺の末寺となった。 (Wikipediaより) ※ |
複雑な形状の斗拱 ※ |
鬼瓦 ※樫井川から取水された用水 |
日根神社本殿社の 御三の桐紋 ※ |
やはり豊臣秀頼~ ※境内摂社 |
逆光です~ ※拝殿舎脇には鉄髭龍~ |
よく見れば 仙人?僧侶?の姿も~ ※木鼻 |
菊花の彫り物 ※本殿舎反対側から~ |
木鼻龍~ 彩色が残っていますね。 ※ |
脇障子 獅子ですかね? ※部分的に昔の彩色? |
天皇御在位50年 昭和天皇~ ※境内摂社 |
破風です ※小さな意匠 |
随神門外に参道が続きます~ ※ |
※百度石 |
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