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令和四年、2022年!ウクライナでのロシア軍との戦が長期化?
新型コロナはオミクロン株で3回接種済み
今年の梅雨は短いの?
奈良再び~気に成る場所へ…

桜井市戒重(戒重春日神社)~11

だからいつもの神社・仏閣と路地・旧村探し~
6輪ポタで~
浮ドンとランドナーでタンデムポタ!
※マウスポインターを置いてください。 
                                           撮影:令和四年06月15日
                                           UP日:令和四年08月09日

横大路を東へ~

※気に成ります~

何?と思えば~

※愛宕大権現碑
燈籠は有りません~

煙抜き~

※鏡遊び~

分水も大好きです!

※水路脇に庚申塚

お堂が在ったんでしょうか?



たばこ屋さん



グラウンドですが~

※この石は?
寺院跡では?
勝手なアホ話~

散髪屋さん



仕出し・寿司屋さん

※大和(やまと)国式上(しきじょう)郡芝村(奈良県桜井市)周辺を領有した外様(とざま)藩。
初名戒重(かいじゅう)藩。1615年(元和1)に
織田信長の弟長益(ながます)(有楽斎(うらくさい)、茶人)が所領を三分して、

四男長政に式上・山辺(やまのべ)、摂津国島下(しましも)3郡内において1万石を与え、
桜井市域西部にある中世城郭戒重城を陣屋に改め、戒重藩と称したが、
4代長清のとき北東4キロメートルの岩田村へ陣屋替えが願い出され、1713年(正徳3)に地名も芝村と改称、
7代輔宜(すけよし)の1745年(延享2)に藩庁が移された。
1737年(元文2)摂津、大和の天領1万3000石を預かり、

かくて芝村には旅籠(はたご)、郷宿(ごうやど)、御用商人も集い、上街道沿いに町並みが発展し、
寛政(かんせい)年間(1789~1801)には戸数400軒、人口も1600人に達した。
1794年(寛政6)には天領預かり御免。11代長易(ながやす)の1863年(文久3)には、
天誅(てんちゅう)組浪士追捕(ついぶ)の功を賞せられた。
1871年(明治4)廃藩。領域は芝村県、奈良県、堺(さかい)県、大阪府を経て87年再置の奈良県に編入。
(日本大百科全書 ジャポニカより)

読まれへん~と…

※JRと近鉄潜って~

いつも自動車で通過する際に
気に成っていた神社へ~

※扁額

訳語田幸玉宮伝承地
訳語田幸玉宮は、第30代敏達天皇が営んだ宮です。
記紀によりますと、敏達天皇は、初め百済大井宮※を営んでいましたが、
占いによりこの地に宮を移したとされています。
先に我が国に伝来した仏教については、
崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部氏との対立が表面化していきます。
蘇我氏が仏法を広めたせいで疫病が発生したと物部氏から進言を受けた敏達天皇は、
仏教を禁止して仏像や仏殿を焼くなどしたと記されています。また、外交面では、
先代の欽明天皇の遺志を継いで、朝鮮半島進出の拠点であった任那の復興を目指して、
百済や新羅と外交を続けたと記されています。
※百済大井宮の所在については、
桜井市のほか、河内長野市、富田林市、北葛城郡広陵町など諸説あります。
(看板より)
明治期の廃仏毀釈に似てますね。

※岡本秀治郎翁頌徳碑
ググっても判らない~

昭和5年銘

※大字 戒重

掲示板

※明治39年銘玉垣~

手水鉢

※敏達天皇訳語田・幸玉宮推定地

社殿前

※ご夫婦揃っての還暦記念銘
狛犬台座

狛犬


※吽

出征軍人有志者
記念燈

※石材~

これは~
前にも…
01 02

※手水鉢

径内摂社

※此方にも~

稲荷社と真中には金毘羅大権現碑

※献灯に武運長久銘~

本殿舎前には狛犬ではなく燈籠~

本殿舎前狛犬


※吽
ありゃ~

ムクロジ

※ムクロジ(無患子、学名: Sapindus mukorossi)はムクロジ科ムクロジ属の落葉高木。
別名、ムク、シマムクロジ、ムニンムクロジともよばれる。
東アジアから東南アジア・インドの温帯域に分布し、
日本では寺社に植栽された巨木も見られる。

果実は石鹸代わりに、種子は羽根つきの羽根の玉に使われる。
(Wikipediaより)

コンクリ築地で
本殿舎が写しにくい~

※境内地風景~

奥にも…



近くの製材所



西方寺さん

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