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令和四年、2022年!一年遅れの東京五輪は昨年度無事?終了し~
国内の新型コロナウイルスは、私も接種した2度のワクチンで
新規陽性者は全国でも100人/日前後で一段落状態。。
力石の権威、高島先生からの依頼で…
モミジが赤く朱く、色付いて~
秋終番の里山をポタリ。
富田林は昔から通過点でした~
寺内町風景は前に~
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今回も浮ドンと、まだサンと!
富田林市富田林町(寺内町Ⅰ)~08
だからいつもの神社・仏閣と路地・旧村探し~
電車移動は少し怖いので6輪ポタ~相棒自転車は…
浮ドン、まだサンはブロ君
私はミニランちゃんdeトリオポタ!!
寺内町を、ぶらぶらと~

※マウスポインターを置いてください。 
                                           撮影:令和三年11月23日
                                           UP日:令和四年01月13日

丸ポスト
現役です~

※自動車移動中です~

寺内町の駐車場から
ポタ開始!

※寺内町は高校時分から
久しぶりです~

河内西国霊場
有名な大寺院から町の小さなお寺まで渾然一体となっているのが特徴。
また役行者や聖徳太子、行基、弘法大師等の開基によるお寺が多いのも特徴の一つです。
信貴生駒山系に沿って点在する河内西国霊場ならではといえるでしょう。
(河内西国霊場会HPより)


※16番浄谷寺さんの銀杏横目に~

いざ、寺内町の中心部へ~
先の赤い鳥居を目指して~

※PLの塔がランドマーク

五六七(いむな)稲荷大明神サン

※奇麗に祀られています。

役行者信仰も~

※大峰山33度参拝記念碑

百度石

※アニメチックな役行者像

毛栄組
大峰山参詣の講中でしょうか?


 
ツンとした可愛い顔です。

※祠には~

眷属狐



奉納絵馬

※待ってーな!

懐かしいアパートですかね。。

※この舗装は寺内町の
範囲明示でしょうかね?

釣具屋さん
昔は町に1軒は有りましたね。

※コナレ家屋
八幡造??

寺内町の香りが~

※奈良の今井町とは
似て非なる町並み~

あの山の向こうは奈良県です。

※NTTのテーブルアンテナは
町のランドマークですね。

富田林市立じないまち交流館

※江戸末期の町の略図
町の中心部は格子状で
周辺部には、
あて曲げが見られます。

主屋
入母屋、小庇、虫小窓

※坪庭

煙抜き

※丸ポスト

オッちゃん達の幼き頃には、
大阪市内にも
こんな風景が~



キョロキョロしながら~
直線道路でも微妙な
あて曲げが見られますね。



富田林寺内町(とんだばやしじないちょう、とんだばやしじないまち)は、
大阪府富田林市にある寺内町。
江戸時代から昭和初期の町並みが残ることで知られる。
国の「重要伝統的建造物群保存地区」および、
旧建設省選定の「日本の道100選」のひとつ。
(Wikipediaより)




小庇が綺麗に~
富田林寺内町は、戦国時代末期の永禄3年(1560年)、本願寺一家衆興正寺第16世・証秀が、
石川西側の河岸段丘上の荒芝地を百貫文で購入し、
一向宗興生正寺別院を中核に開発された宗教自治都市であった。
周辺4ヶ村(中野・新堂・毛人谷(えびたに)・山中田)の「八人衆」の協力で、芝地の開発、
御堂(興正寺別院)の建立、畑・屋敷・町割等を行い、
富田林と改めたことに始まるという(興正寺御門跡兼帯所由緒書抜)。
由緒書には上記のように記載されているが、
由緒書は江戸時代の編纂物であることから確固たる信憑性を得ることは叶わない。
八人衆は、この功により年寄役となり、寺内町の自治を行った。
(Wikipediaより)




煙抜き家屋は
大好きですねん。



用水桶

※密集家屋は火事が怖いんですわ。


※脇を見ながら~




見返って~

※脇の道路

重厚な瓦屋根



本瓦が好きですねん!


無粋なガードレールではなく
町並み保存にも気を付けて~

Kさんも描かれてましたね。



富田林興正寺別院(とんだばやしこうしょうじべついん)は
富田林市富田林町にある真宗興正派の寺院。
永禄初年(1558年)頃建立。宗教法人としての名称は「富田林興正寺別院」。
富田林寺内町の中核寺院である。
寺伝によると、応永年中(1394年~1412年)に毛人谷村(えびたにむら)小字古御坊に
草創された一向宗道場が前身とされる。
永禄年間初頭(1560年前後)に興正寺第16世証秀が「富田の芝」と呼ばれた荒地を境内地として買いうけ、
周辺4村の庄屋8人とともに富田林寺内町を開発し、当寺を建立した。
証秀の祖父である興正寺第14世蓮教は、かつての法名を経豪といい、
畿内を中心に多くの門徒を抱える佛光寺の住持であった。
文明13年(1481年)頃に本願寺へ帰参したが、
多くの門徒・末寺を引き連れて佛光寺を去り、山科に興正寺を再興した。
蓮教は、本願寺第11世顕如とともに河内地方の教化に努めた。
証秀の父である興正寺第15世蓮秀のとき、天文の錯乱によって
山科の本願寺・興正寺がともに焼亡すると、興正寺は大阪の天満へ移った。
蓮秀は、細川晴元と本願寺の和解に奔走した功によって、本願寺の一家衆に加えられた。
証秀が34歳で病死したあと、顕如の次男で証秀の養子に入っていた顕尊が興正寺第17世となり、
永禄12年(1570年)に正親町天皇より興正寺を脇門跡とする勅許を受けた。
『郷土史の研究』によれば、当寺は初め「興正寺掛所」と称し、後に「興正寺門跡兼帯所」となり、
本山興正寺の西本願寺からの独立に伴って1880年(明治13年)に「興正寺別院」に改称したとされる。
俗に、富田の御堂または御坊という。
『河内名所図会』には「興正寺の輪番所」とあり、本山興正寺門主が当寺の住職を兼任し、
当寺には本山から派遣された留守居がおかれた。
現在は、本山興正寺住職の一族が当寺の住職を務めている。
第二次世界大戦末期には大阪市平野国民学校からの学童集団疎開を受け入れている。
(Wikipediaより)


※本堂~
ブルーシートが痛々しい…
台風被害でしょうか

城の門筋
人影まばらです
コロナの影響が~



牡丹・雲

※飾り瓦





鐘楼





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