川西市内の小戸地区にあった洋館の 旧平賀家住宅を平成2年11月に移築復元しました。 (川西市郷土館HPより) ※ステンドガラスだけでなく 貴重な資料ですね。 |
ファン付きのランプ ※サンルーム |
色んなランプが~ ※ |
暖炉がある居間 ※色んな器も~ |
ベッドルーム 此処にも暖炉とロッキングチェアー |
お洒落な手洗い(流し台) 現代にも通用するような… ※大正期のガラス |
此処にもオールドノリタケ ※ |
お洒落な意匠 ※縫い裁つ人 『繕い裁つ人』(つくろいたつひと)は、池辺葵による日本の漫画。 また、それを原作とした日本映画。 2009年に『Kiss PLUS』(講談社発行)にて連載を開始。 その後、後継誌の『ハツキス』に引き続き連載、2015年1月号にて最終回を迎えた。単行本は全6巻。 漫画ランキング本『このマンガがすごい!』の2012年版のオンナ編では17位にランクインした。 2015年に中谷美紀主演により実写映画化された。 2015年1月31日に公開。企画・監督は三島有紀子。 撮影は2014年3月に神戸市を中心に兵庫県オールロケで行われた。 三島の母校である神戸女学院大学もロケ地として使用されている。 (Wikipediaより) |
此処を御店のセットに使われたそうで~ 一度、観なければ~ ※壁にクローバー 他にハート、スペード、ダイヤの意匠が在ると~ 職人のニヤリが~ |
煙突は3本在るとか~ ※ 平賀 義美(ひらが よしみ、安政4年8月6日(1857年9月23日) - 昭和18年(1943年)3月2日)は 日本の応用科学者。初名は石松决(いしまつ さだむ)。 筑前国(現・福岡県)出身。1870年に大学南校入学。1878年東京大学化学科卒業。 その後、イギリス・オーエンス大学に留学し、有機化学と染色を学んだ。 帰国後の1881年に東京職工学校教諭。1882年に判事・平賀義質の死去の際、その娘婿となり、 名前を平賀義美に改名。1890年、農商務省技師となる。 1894年に大阪府立商品陳列所長となり、1896年に大阪織物会社設立。 1917年に大阪実業協会会長となる。 1919年(大正8年)に建設された平賀義美邸(国の登録有形文化財)は 1990年(平成2年)に川西市郷土館へ移築されている。 (Wikipediaより) 明治35年(1902年)10月3日 工学博士・平賀義美、内務省土木監督・沖野宕雄、早稲田大学長・法学博士・平沼淑朗、 工学博士・南清、工学博士・菊池恭三らにより、大阪市北区堂島の 大阪市立高等商業学校の校舎を借用して、関西大倉学園の前身となる社団法人関西商工学校が発足する。 (関西大倉学園HPより) へぇ~ |
英国に留学経験のある施主が英国のカントリーハウスにならい建てたもので, 設計が大林組の松本兎象,施工が鴻池組である。 屋根勾配,出窓,暖炉,煙突等の各所にその様子が表れており, 19世紀末から流行する本格的な洋風邸宅の大正期における好例といえる。 (文化遺産オンラインHPより) ※家紋では無いですね。 |
平賀博士が化学者であったことから実験研究棟と旧邸内にあった 東屋・門・橋・胸像なども移築し、復元しました。 (川西市郷土館HPより) 奥にアトリエ平通 ※アトリエ平通内部 川西市をこよなく愛された故平通武男画伯及び故全子夫人の意向を受け、 ご遺族よりアトリエのあった川西市花屋敷の土地・建物の売却益及び 遺品が川西市に寄贈されました。 この建物は、それをもとにアトリエを再現したもので、 兵庫県産木材を使用した重ね梁工法を用いて建築しています。 (川西市郷土館HPより) |
親柱 ※絹延小橋 橋の中央部が 大阪府と兵庫県の県境だとか。 前には~ |
旧平安家住宅の飾り瓦 コウノトリでしょうか? ※館長さん 色々説明感謝です! |
溶鉱炉跡 此処に煙突が在ったんですね。 ※ |
からみ(鉱滓)捨て場 ※雑草が生えないそうで~ |
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皇帝ダリアの苗 ※ミューゼレスポアール(青木・平通両画伯記念館) |
白馬と童女 ※ 青木大乗 日本画家。大阪生。本名は精一郎、初号は宏峰。関西美術院で洋画を、京都絵専で日本画を学ぶ。 新澄社洋画研究所を創設するが、のち解散して日本画に転ずる。 結城素明、川崎小虎らと大日美術院を結成。同院解散後は無所属作家として個展の制作発表を中心に活躍。 欧米や中国を歴遊し、写実を基本に深い画趣をたたえる作品を描いた。昭和54年(1979)歿、87才。 (Weblio辞書より) |
日本各地の日本画 マッカーサーに贈られるために描かれたと~ ※平通武男 没年月日:1991/03/28 分野:洋, 画家 (洋) 日展参与で元岡山大学教授の洋画家平通武男は3月28日午前6時10分、 心不全のため大阪府箕面市のガラシア病院で死去した。享年83。 明治40(1907)年11月18日、大阪府豊能郡に生まれる。大正15(1926)年3月、奈良の天理中学校を卒業。 のち上京して川端画学校を終了後、熊岡絵画道場で熊岡美彦に師事する、 昭和7(1932)年第1回東光会展に初入選。 同8年第14回帝展に「樹蔭」で初入選。翌9年第15回帝展にも「初夏窓邊」で入選する。 同10年第3回東光会展には「ミシンと女」「蹄鉄作業」「或るスタンドバー」「室内」を出品して東光賞受賞。 同11年文展鑑査展に「洗濯屋」を出品して選奨となる。同12年東光会会員に推される。 戦後は同21年第2回日展に「黄衣」を出品して以降、同展に出品を続け、翌22年第3回日展では「潮風」で特選受賞。 同33年日展が社団法人となって再出発する年に日展会員となる。 同36年8月より約6カ月間フランスを中心に欧州遊学。 同37年岡山大学教育学部美術科助教授となり、翌38年同教授に就任。 また、同年日展評議員に推される。同48年岡山大学を停年退官。 同55年東光会が社団法人となるに際し、副理事長となった。 同61年大阪梅田近代美術館で画業60年記念展を開き、同年画集も刊行。 同63年日展参与に推挙された。人物画を得意とし、情趣ある一瞬をとらえて絵画化する。 古典的な形態把握と堅牢なマチエールを示す。没後の平成4年2月、大阪梅田ナビオ美術館で遺作展が開かれた。 (東京文化財研究所HPより) |
明り取り オブジェ ※マンホール |
溶鉱炉跡 北側から~ ※送風機小屋 |
下財屋敷北部の平安家は明治以降も製錬を行ない、 大正時代には新たに近代化された製錬所を旧平安家住宅の北東側に建設し、 昭和10年頃まで操業していました。 製錬所は溶鉱炉・真吹炉・送風機小屋・煙突からなっていたことが、 発掘調査や聞き取り調査から明らかになっています。 しかし、溶鉱炉や送風機等、近代化された施設を持つとはいえ、 製錬の仕上げは近世以来の真吹炉が用いられていました。 当時転炉を導入した近代化製錬所はすでにあり、 これに比べると伝統的な小規模製錬所といえます。 (川西市郷土館HPより) ※旧平安家へ戻ります。 |
立派な建屋 ※大八車でしょうか? デフ付? |
水瓶色々~ ※生活雑器ですね。 |
籾摺機 ※ポンプは現役でしょうか? |
お邪魔しました~ ※ |
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