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令和二年、2020年!今年は東京五輪だったのに~
コロナウイルスの全世界拡大で延期とか(3/26)…
ステイホームの緊急事態宣言が解除され~
私は、恐る恐るマスク附けてタンデムポタへ~
摂津の山並み南側山裾の地区をポタリ。

前には
01 02 03~今回は、浮ドンと!
川西市下財町(川西市郷土館01)~05
だからいつもの神社・仏閣と路地・旧村探し~
JR大阪東線の恩恵で輪行ポタ~相棒自転車は…
浮ドンは古片倉シルク号と
私はお初のアルプス号deタンデムポタ!!

※マウスポインターを置いてください。 
                                           撮影:令和二年06月06日
                                           UP日:令和二年06月30日

川西市郷土館(かわにししきょうどかん)は兵庫県川西市にある博物館・美術館である。
かつて多田銀山の精錬所を営んだ平安(ひらやす)家の邸宅「旧平安邸」を施設として
昭和63年(1988年)11月に開館した。
かつて精錬所があった広大な敷地内には、近代和風建築の「旧平安邸」、西洋館の「旧平賀邸」、
現代建築のミューゼレスポアール、アトリエ平通の展示施設が点在する。
(Wikipediaより)


※新聞郵便受口
浮ドン調べてましたね。

お邪魔して~



小堀遠州式燈籠
小堀 政一(こぼり まさかず)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての
大名、茶人、建築家、作庭家、書家。
2代備中国代官で備中松山城主、のち近江国小室藩初代藩主。
官位は従五位下・遠江守。遠州流の祖。
一般には小堀 遠州(こぼり えんしゅう)の名で知られるが、
「遠州」は武家官位の遠江守の唐名に由来する通称で後年の名乗り。
道号に大有宗甫、庵号に孤篷庵がある。
(Wikipediaより)



平安家は銅の精錬で栄えた家で,旧宅は土間と2列3室からなる
伝統的な6間取りを基調として,屋根や庇等に数寄屋風の意匠を,
玄関脇の接客部分等に近代的な間取りを取り入れている。
伝統的手法を継承し要所に変化を加えた大正期の大規模邸宅の好例である。
(文化遺産オンラインHPより)


※オクドサン

客用の風呂場とか~



一色八郎氏のコレクションである箸の展示室
東南アジア

※現代の知能箸

モンゴルは豪奢ですね。

※朝鮮半島の箸

中国の箸

※工芸箸

塗り箸
私のは黒江塗です。



民具利用の照明



中庭

※昭和のレコード
ピンキラ、ひでき、ももえ、キャンディーズ!
皆、持ってましたがね…

奥のラジカセも持ってましたわ!
サンヨー製でしたが…

※サワイのドロップ
モンチッチ…懐かしいなぁ~

78年ギャラン
ラムダにシグマ~
中学生のころに同級生が欲しがっていた車です。

※メンコ(べったん)
ロウを塗ったり、セロテープで巻いたりして
重く、ひっくり返らないようにして~

鉄製の扇風機
豚の蚊やり

※AICHI TOKEI製

卵は優等生なんですね。

ポートピア神戸
UCCガールズ
今の子はスマートですね!

※ランプ

金庫も~
似たものは前に

※中庭

離れの電燈笠



ターコイズブルーの漆塗り机



織部燈籠の柱ですね。



オクドサンの次の間には
煮炊きしたおかずを置く棚が~

※職人のニヤリが~

セイコウシャですかね。

フランス製のランプシェード

※奥様が欧州に洋行した際に
購入されたそうで~

見事な意匠のランプ


 
カットが見事!



オールドノリタケ



 同じもの違う角度で~

※ふすまの取っ手
鶴の意匠

こんな絵が描けたらなぁ~



菊炭(池田炭)
お茶には欠かされない…
付近では1軒だけが健在とか~

※鉱山資料展示室


鞴(フイゴ)ですね。

※坩堝ですね。

背の高い煙突が有ったんですね。



多田銀銅山
一庫ダムの周りには
多くの採掘坑が有ったんですね。
前には

天平時代より銅山として開発され、このときの神教間歩から産出した銅は
東大寺の大仏鋳造用に使用されたといわれるが記録に乏しい。
奈良時代に皇朝十二銭の鋳銭材料を供給した銅山の記録があるが、畿内にも拘らず、
ここに多田鉱山が登場していないことからこの時代の産出は疑わしい。
平安時代に源満仲が多田荘に館や多田院を設けて開発したとも伝えられる。
産銅の確実な記録は鎌倉時代の長暦元年(1037年)、能勢採銅所が設けられた時期まで降る。
天正年間に入り、銀を産出するようになり豊臣秀吉の直轄領となった。
ただし慶長3年(1598年)の豊臣氏への運上高は銀476枚(約76kg)であり、
生野銀山の62,267枚(約10トン)には比べるべくもない量であった。
このため関ヶ原の戦い以降も徳川家康は石見銀山および生野銀山のように
天領としなかったといわれる。
これは秀吉が地下奥深くの鉱脈を隠匿し将来の蓄財に備えた為であるとする、
いわゆる埋蔵金説が存在するが、確証できる資料は存在しない。
しかし寛文年間に銀および銅の産出が急増するに至り銀山に代官所が置かれ、
銀山村が形成され天領となり幕府の支配が強化された。
寛文年間初頭には年間の産出高が、銀1,500貫(約5.6トン)、銅70万斤(約420トン)に達したという。
これより前の寛永年間より南蛮吹による精錬が行われ、荒銅より灰吹銀が採取され、
抜銀された精銅は大坂銅吹屋へ送られ、長崎御用銅とされた。
その後産出高は次第に減少し、宝永年間には年間銅14万斤(約84トン)前後、
正徳年間には年6万斤(約36トン)前後となった。
天保11年(1840年)、高槻藩の預り所となり、天保14年(1843年)に大坂代官所の支配となったが、
弘化元年(1844年)、再び高槻藩の預り所となった。
明治時代に入り、三菱が稼行し、昭和19年(1944年)には日本鉱業が買収し操業を続けたが、
昭和48年(1973年)に閉山した。
(Wikipediaより)


※館長さんが直に説明してくれました。

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