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令和二年、2020年!今年は東京五輪!!の正月は~
暖冬の予感、しかしこの日は寒冷前線のせいで寒く
渡来人や有名人の足跡探して…
生駒山系の北側から東側の地区をポタリ~

気候は京都市内と同じような北山颪も!
あれって愛宕山!?
今ですよ今!
前には
~今回は浮ドンと!

京田辺市 河原里ノ内(天満宮) 10

だからいつもの神社・仏閣と路地・旧村探し~
JR大阪東線の恩恵で輪行ポタ~相棒自転車は…
私も浮ドンもブロ君でタンデムポタ!!
※マウスポインターを置いてください。 
                                           撮影:令和二年01月05日
                                           UP日:令和二年03月26日


馬坂川沿いには桜並木が~



此処でミスコース!
先へ行ってしまいました~

※此処で思いとどまって~

馬坂川

※桜並木を~

伽和羅古戦場跡碑
武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと、
生年不詳 - 崇神天皇10年9月27日頃)は、記紀に伝わる古代日本の皇族。
第8代孝元天皇皇子で、崇神天皇(第10代)に対する反乱伝承で知られる。
『日本書紀』によれば、孝元天皇(第8代)と
河内青玉繋の娘の埴安媛(はにやすひめ:波邇夜須毘売神とは異なる)
との間に生まれた皇子である。妻には吾田媛(あがたひめ)がいる。
同書崇神天皇10年9月27日条によれば、
四道将軍の1人の大彦命(武埴安彦の異母兄弟、阿倍臣祖)が
北陸への派遣途中で不吉な歌を歌う少女に出会ったため、
大彦命は引き返して天皇にこのことを報告した。
そして倭迹迹日百襲媛命の占いによって
武埴安彦とその妻の吾田媛の謀反が発覚する。
果たして武埴安彦は山背から、
吾田媛は大坂(現・奈良県香芝市逢坂付近)から大和へと攻め入ったが、
かえって吾田媛は五十狭芹彦命(吉備津彦命、四道将軍の1人)に、
武埴安彦は大彦命と彦国葺(和珥臣祖)に討ち取られた。
その際に武埴安彦と彦国葺とによる矢の射ち合いとなったが、
まず先に放った武埴安彦の矢は当らず、
次に彦国葺の放った矢が武埴安彦の胸に当たったという。
これによって武埴安彦の軍は崩れ、半数以上が斬られて鎮圧された。
以上の反乱伝承は『古事記』にも記載されている。
(Wikipediaより)


※『日本書紀』崇神天皇の条 武埴安彦(たけにはやすひこ)が天皇にそむいて
輪韓河(わからがわ・木津川)の戦いに敗れ、軍兵は甲を脱ぎすてて逃げたが、
後にその甲を脱いだところを「伽和羅」と称したと記されている。
『古事記』応神段 大山守命が宇治の近くでの戦に破れて宇治川に流され、
訶和羅之前(かわらのさき・伽和羅)に来て沈んだ。
鈎(かぎ)で探したところ、甲がかかり「かわら」と鳴ったという。
そこでその地を「かわらのさき」と呼んだという。
『和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』
甲作郷(かわらづくりごう)の名が見え、
この付近のことと長く考えられていたが、
昭和63年(1988)から行われた八幡市の正法寺文書の調査により
現在の八幡市八幡付近が、甲作郷であることが判明した。
この付近は、『和名類聚抄』にいう「志摩郷」の地とされる。
(看板より)


脇に河原天満宮サン

※鳥居正面
 
扁額

※手水舎

 手水鉢

※有りましたよ~
杯状穴
 
まだサンに報告せな~

※金婚記念銘
大正15年(1926年)だから
明治9年(1876年)に結婚された方ですね。
 
狛犬


※吽

顔も可愛くて~


※吽
 

 割拝殿舎

※扁額
 
お邪魔して~

※本殿舎前
 
撫で牛

※瓦製~
 
本殿舎脇から~

※末社
 
脇に遥拝所
南向いて~
橿原神宮でしょうか?
伊勢神宮?


 
末社の台座に

※梵字が~
神宮寺の名残?
 
こちらには見られない~

※本殿舎風景
 
参詣の皆様へ~

※脇の一本一得
 
地蔵様


 
此処まで浸水するかも~

※脇の公民館
 
お邪魔しました~


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