思い出したと!
※前に来られてるんですと!
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鉄道唱歌にも歌われた〜
♪右は高輪泉岳寺 四十七士の墓どころ
雪は消えても消えのこる 名は千載の後までも♪
※号は萬松山
松林があったんでしょうか?
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門前市
※土産物屋さん
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あ〜!
珍しや!
初代写ルンです。
えっ?みなみさん
此の商品の開発に関わったの??
※お墓は中らしいのですが〜
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寺脇の猫路地
※嬉しそう〜
私も!!
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地図上は学校の一部。
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寺と墓地と学校の鬩ぎ合い。
※ポンプ見っけ!
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住宅分譲もされてました。
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一本杉
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工事中〜
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寺への参道なんですね。
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入りたいが入れない〜
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此の段差
※聖坂からの道
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保安寺さん
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呼ばれる方向へ〜
※高輪の住宅地
斜めの樹がそそります。
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肥後熊本藩旧細川邸のシイ
前の総理思い出して〜
※樹高10.8m
幹周り8.13m
枝張りは
東6.7m
西2.7m
南5.6m
北5.8m
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多くの幹がからみ合って
太い一本の樹になった感じ〜
※坂と寺が多いんですが〜
高級住宅地!
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先は中学校ですが
此の段差!
※台地の上を戻ります。
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しいの木より150mほど離れた所〜
ここまで細川家の屋敷だったんでしょうね。
※大石良雄外十六人忠烈の跡
この地は、赤穂事件で大石内蔵助良雄ら17人が預けられた肥後熊本藩(54万石)細川越中守下屋敷の一部である。
赤穂事件とは、元禄14年(1701)3月14日におこった殿中刃傷事件と
その翌年元禄15年(1702)12月14日の夜から15日にかけての吉良邸討ち入り及びその処分など一連の事件をいう。
当時の藩主5代綱利は、12月15日老中稲葉丹後守正往(下総佐倉藩主)から大石内蔵助外16人御預けの命を受けると、
総勢875人に17挺の駕籠と予備として5挺の駕籠を用意させ、大目付仙石伯耆守久尚の屋敷に送った。
引渡を受けたのは午後10時頃で、この地に到着したのは御膳2時過ぎであった。
この様な大部隊を繰出したのは、藩の威武を示すとともに上杉家が
親の仇たる46士を襲撃するかもしれないとの噂があったためである。
細川綱利は、大藩の威力と識見を以て優遇し、御預四家のうちで即日引見したのは細川家だけであった。
元禄16年(1703)2月4日午後2時、上使の御目付荒木十左衛門政羽と御使番久永内記信豊から切腹を申渡し、
大石内蔵助が一同を代表して「切腹仰せ付けられ候段有り難き仕合に存じ奉り候」と礼を述べて御請した。
家臣の中から介錯人を出すよう命ぜられた細川家は17人の切腹に17人の介錯人を選定した。
切腹の場所は大書院舞台側、大書院上の間の前庭で、背後に池を負った位置である。
切腹の座には畳3枚を敷き並べ(細川家以外は2枚)その上に木綿の大風呂敷を展べ、
背後も左右も白の幔幕を張り廻らした。
大石内蔵助は安場一平(子孫は明治維新に功有り男爵を授けられた)の介錯で切腹した。 大石良雄外16人は、浅野家の菩提寺泉岳寺に葬られている。 平成10年(1998)3月建設 東京都教育委員会
指定 大正7年(1918)4月 |
大石内蔵助良雄、吉田忠左衛門兼亮、原惣右衛門元辰、片岡源五右衛門高房、間瀬久太夫正明、
小野寺十内秀和、間喜兵衛光延、磯貝十郎左衛門正久、堀部彌兵衛金丸、近松勘六行重、富森助右衛門正因、
潮田又之丞高教、早水藤左衛門満堯、赤埴源蔵重賢、奥田孫太夫重盛、矢田五郎右衛門助武、大石瀬左衛門信清 |
中央義士会ってあるんやと〜
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来た道を泉岳寺まで
引き返します〜
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一本杉
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猫路地も
※ポンプも〜
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寺・墓・学校も〜
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路地抜けて〜
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泉岳寺脇の料理屋サン
※山門
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四十七士石碑 |