topページへ戻る コンテンツ メニューへ戻る 親爺紹介 リンクへ 一言BBSへ

令和四年、2022年!一年遅れの東京五輪は昨年度無事?
北京冬季五輪も終了し~ウクライナでのロシア軍の不穏な動き。
新型コロナはオミクロン株で3回接種済み(まだサン)
里では梅の便りがチラホラ~
冬の吉野山は寒すぎて…
自転車は封印~

吉野町窪垣内(御霊神社)~08

だからいつもの神社・仏閣と路地・旧村探し~
電車移動は少し怖いので~
浮ドン、まだサンと!
4輪で膝栗毛

※マウスポインターを置いてください。 
                                           撮影:令和四年02月23日
                                           UP日:令和四年03月13日

吉野川ノホトリ 一人紙漉ク 人ガ居ル。

紙漉ク女(ヒト)ハ 裳裾ヲ濡ラシ 流レル水ヲ神トイウ。

榊莫山先生の詩が好きです。
UFO先生も好きだったとか…

一度、上六の近鉄劇場で
莫山先生の講演を伺った思い出が~


説話によりますと、大海人皇子の一行が当地に滞在された折に、
紙漉きの技術が伝わったとされており、
それが真実としますと当地の和紙生産には1300年以上の伝統があることになります。
この言い伝えは全くの作り話とも思えませんが、文献で遡ることができるのは室町時代までです。
それでも、当地での紙漉きには600年以上の歴史があることになります。
(植和紙本舗HPより)


国樔村道路元標
日本の道路元標が国によって定められたのは、里程調査のための明治時代初期のものと、
大正の旧・道路法施行令公布の時のものと、二つの時期にわたって道路に設置されたものがある。
正確には、大正時代に設けられたものが「道路元標」とよばれるもので、
明治時代に設けられたものは里程元標(りていげんぴょう)といい、
大正期の道路元標の前身となるものである。
これ以外に現在、一般国道などの起終点などで見ることが出来る道路元標は、
昭和時代の太平洋戦争後に設置されたもので、その設置基準については法的な根拠はなく、
道路の付属物の扱いで記念碑的なものとして建てられたものである
(Wikipediaより)


※1922年(大正11年)に、道路元標の形状、規格、材料など細目が規定された
内務省令(内務省令第二十号)が発布され、
当時1万2000以上あった各市町村の自治体中心部に設置が始められた。
設置場所は府県知事が指定することとされており、
ほとんどは市町村役場の前か市町村の中心となる主要な道路同士の交叉点に設置されていた。
(Wikipediaより)


石屋さん

※脇に立派な石垣

急傾斜ですね。



一段上って社務所

※手水鉢

もう一段上に~

※窪垣内青年団●女会建立

御霊神社

檜皮葺の本殿舎

※小さいですが
覆い屋内で奇麗に祀られています。

見返って~
吉野川は目の下に~
 
神武天皇(橿原神宮)
明治天皇(伏見桃山陵)
遥拝所

旅心誘います~

※石は売るほど河原に在りますとか…

新子郵便局

※河原までは少し遠い…
怪しい親爺のポタメニューに戻る
 
01 02 03 04 05
06 07 08 09 10
11 12 13 14 15
16 17 18 19
ページトップに戻る

Copyright c 2003 Office Young Moon. All Rights