吉野川沿いに
伸びる町並み~
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新旧の街道の交差部
※昭和の名残が…
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上流方向~
川を挟んで
左が妹山・右が背山
※下流方向~
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寄るところが~
※裏側です~
表裏共に絵に成りますね。
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街道沿いに~
※庚申堂
庚申(かのえさる、こうしん)とは、干支(かんし、えと)、
すなわち十干・十二支の60通りある組み合わせのうちの一つである。
陰陽五行説では、十干の庚は陽の金、十二支の申は陽の金で、比和(同気が重なる)とされている。
干支であるので、年(西暦年を60で割り切れる年)を始め、
月(西暦年の下1桁が3・8(十干が癸・戊)の年の7月)、さらに日(60日ごと)がそれぞれに相当する。
庚申の年・日は金気が天地に充満して、人の心が冷酷になりやすいとされた。
この庚申の日に禁忌(きんき)行事を中心とする信仰があり、日本には古く平安時代に移入された。
(Wikipediaより)
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お目当ての…
売り切れでした~残念!
※新旧の街道の交差部
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飾り瓦
鶏
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飾り瓦
猿
「日吉(ひえ)山王信仰」とも習合することにより、
室町時代の後期から建立が始まる「庚申(供養)塔」や「碑」には、「申待(さるまち)」と記したり、
山王の神使である猿を描くものが著しくなる。
庚申信仰では、もともと猿が庚申の使いとされ、「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿をもって
その神体とした庚申堂もあったが、やがて青面金剛が本尊とされ、三猿は脇に置かれるようになった。
庚申塔も三猿だけだったが同様に添え描かれた。
仏教式の庚申信仰が一般に流布した江戸時代は、庚申信仰史上最も多彩かつ盛んな時期となった。
しかし、幕末に衰えを見せ、庚申塔は寛政8年(1796年)には近畿地方の庚申信仰発祥の北摂などでも、
すでに珍しいものとなり(『摂津名所図会』)[13]、山形県寒河江市所在のものが現存最古である。
明治時代初めに路傍の石仏祠石碑や基礎となった修験道が禁止され、
以降には生活の変化とともに急速にその信仰が失われた。
(Wikipediaより)
※どちらも関係が深い~
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木鼻の象
現在までに伝わる庚申信仰(こうしんしんこう)とは、
中国道教の説く「三尸説(さんしせつ)」をもとに、
仏教、特に密教・神道・修験道・呪術的な医学や、
日本の民間のさまざまな信仰(民間信仰)や習俗などが
複雑に絡み合った複合信仰である。
(Wikipediaより)
※猿
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木鼻象
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この夜慎ましくして眠らずに過ごすという習慣は、一部の地区で受け継がれている。
また地域によっては、人々が相寄って催す講も続けられている。
それらは互助機関として機能したり、さらには村の常会として利用されたりすることもある。
臨時のイベントとして行われることもある。
(Wikipediaより)
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大正期
※常夜灯
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山が迫っています。
※水でしょうか?
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木造校舎の面持ち
懐かしいなぁ~
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近鉄吉野川橋梁
1928年(昭和3年)3月に吉野鉄道(現在の近鉄吉野線を建設した鉄道会社)が、
六田駅(旧吉野駅)から吉野駅までの延伸にともない完成した。
両端は6連の単線上路プレートガーダー橋、
本流部に3連の単線上路プラットトラス橋の構成である。
全長242.4m。
(Wikipediaより)
※トラスが下側についているのは
珍しい形状とか~
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下部から~
※反対側から~
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むむむ…
※イベント用でしょうか?
町中には色んなものが~
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妹山は目立ちますね~
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