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令和四年、2022年!一年遅れの東京五輪は昨年度無事?
北京冬季五輪も終了し~ウクライナでのロシア軍の不穏な動き。
新型コロナはオミクロン株で3回接種済み(まだサン)
里では梅の便りがチラホラ~
冬の吉野山は寒すぎて…
自転車は封印~

桜井市上之宮(参道鳥居)~01

だからいつもの神社・仏閣と路地・旧村探し~
電車移動は少し怖いので~
浮ドン、まだサンと!
4輪で膝栗毛

※マウスポインターを置いてください。 
                                           撮影:令和四年02月23日
                                           UP日:令和四年03月08日

まだサン事務所にて集合

※大阪駅から自走してきたと~

びゆーん!
多武峰街道へ…
多武峰(とうのみね)は奈良県桜井市南部にある山、および、その一帯にあった寺院のこと。
飛鳥時代に道教を信奉していた斉明天皇が、『日本書紀』に、
「多武峰の山頂付近に石塁や高殿を築いて両槻宮(ふたつきのみや)とした」とある。
『日本三代実録』に、858年(天安2年)「多武峰墓を藤原鎌足の墓とし、十陵四墓の例に入れる」と記されている。
平安時代中頃の成立と見られる『多武峯略記』に、
「最初は摂津国安威(現在の大阪府茨木市大織冠神社、阿武山古墳か)に葬られたが、
後に大和国の多武峯に改葬された」との説が見える。
神仏分離以前は「多武峯妙楽寺(とうのみねみょうらくじ)」と称する寺院であった。
(Wikipediaより)


※扁額

多武峰(とうのみね)は奈良県桜井市南部にある山、および、その一帯にあった寺院のこと。
飛鳥時代に道教を信奉していた斉明天皇が、『日本書紀』に、
「多武峰の山頂付近に石塁や高殿を築いて両槻宮(ふたつきのみや)とした」とある。
『日本三代実録』に、858年(天安2年)「多武峰墓を藤原鎌足の墓とし、十陵四墓の例に入れる」と記されている。
平安時代中頃の成立と見られる『多武峯略記』に、
「最初は摂津国安威(現在の大阪府茨木市大織冠神社、阿武山古墳か)に葬られたが、
後に大和国の多武峯に改葬された」との説が見える。
神仏分離以前は「多武峯妙楽寺(とうのみねみょうらくじ)」と称する寺院であった。
(Wikipediaより)


1919年は、西暦(グレゴリオ暦)による、水曜日から始まる平年。大正8年。
1月18日 - 第一次世界大戦の終結に関するパリ講和会議開催
4月30日 - パリ講和会議で中国山東省のドイツ利権に関する日本の要求を承認
7月7日 - カルピス販売開始
7月16日 - 板垣退助が死亡
前年に引き続きスペイン風邪が流行。翌年2月までに全国の患者142万人以上、死者6500人以上。
(Wikipediaより)


多武峰保勝会
戦前期の保勝会の設立の系譜
(1)第Ⅰ期:保勝会の胎動期【明治中後期】
1897年に制定された古社寺保存法は、史蹟・名勝については等
閑視された。このような背景の中、内務省主導による古社寺保存会
とは別に「民間の史蹟保存団体がうまれてくる」。
(2)第Ⅱ期:保勝会の急増期【大正期】
大正期に入ると、府県における保護立法が制定され、また行政
の財政援助も進み、指定に伴う土地権利者への補償規定や、指定
地を破壊するへの罰則規定等において、史蹟名勝天然紀念物保存
法の叩き台となる法案もみられる。明治末期になって、行政の上
からの史蹟・名勝保存の動きをうけて、保勝会そのものの数が増
え、規約が定められるなどして組織的にも整備された。この頃か
ら保勝会は急増し始めた。
(わが国における風景づくりの実践の歴史的展開に関する研究
保勝会の活動とその理念に着目してPDFより抜粋)


※町石

談山神社多武峰町石
周りには沢山あります。

※大鳥居(奈良県指定有形文化財) - 一の鳥居。享保9年(1724年)造立。
高さ約8.5メートル、長さ約11.5メートル。
西側の端が1948年(昭和23年)頃の火災で欠けてしまっている。
(Wikipediaより)


大鳥居裏側


キカラスウリ(黄烏瓜、学名:Trichosanthes kirilowii var. japonica)は、ウリ科の植物で、つる性の多年草。
黄色の果実で知られる。カラスウリと同様に雌雄異株である。塊根は様々な用途に使用される。
北海道から九州に自生する。葉は切れ込みが入ったハート型で、
表面は光沢をもち、葉の表面に多数の短毛を持つカラスウリと容易に区別できる。
雌雄異株で、ひとつの株には雄花か雌花かのいずれかのみがつく。 
6月〜9月にかけての日没後から開花し、翌日午前中から午後まで開花し続ける。
花は白色、あるいはやや黄味がかった白色で直径5〜10cm程度。花冠は3〜6枚に裂ける。
花の先は糸状になり、長さは多様であるがカラスウリよりも総じて太い。
雌花はつぼみの段階で子房を持っているため、つぼみが付いた時点で、その株の雌雄が判別できる。
主に夜行性のスズメガが飛来しポリネーターになる。
結実した果実は緑色で、表面には若干の凹凸がある。結実後2ヶ月程度で黄変し、9〜11月頃には黄熟する。
熟した果実の種子周囲の果肉部分には甘みがあり食べる事ができる。
但し、同じウリ科の植物であるメロンと同じように、
過熟により舌や口内の粘膜を強く刺激する物質(ククルビタシンD)が生成するため、注意が必要である。
種子はウリ科に多い扁平な楕円形である。
地下にはカラスウリに似た芋状の塊根を持ちデンプンを多く含む。年数を経た塊根は2kg以上に発達する場合もある。
塊根から出たつるは、枯れずに越冬を繰り返し木質化していく場合もあり、その場合新芽は木質化したつるから出る。
キカラスウリ(T. kirilowiを含む)やオオカラスウリ(T. bracteata)の
皮層を除いた塊根は栝楼根(カロコン)という生薬(日本薬局方に記載)で、解熱、止渇、消腫などの作用がある。
柴胡桂枝乾姜湯、柴胡清肝湯などの漢方方剤に使われる。種子を日干しにしたものは栝楼仁(カロウニン)という。
塊根から抽出されたタンパク質によるエイズに対する薬効が研究されている。
(Wikipediaより)


参道燈籠

※杯状穴が~

この場所だけが
旧の参道状態が残されています。

※吉野川分水
大和豊年米食わず
このことばは、大和の天候が順調であると他の地方は雨が多く不順な年となり、
他が豊作であれば大和は干ばつに苦しむ、つまり、
大和平野の農業用水の不足をいいあらわしています。
もともと少雨地帯であり、大きな河川にめぐまれず、水源のほとんどをため池に頼ってきました。
ところが、山ひとつ隔てれば、日本有数の大河・吉野川(紀の川)が流れています。
しかも、大台ヶ原など最も雨の多い流域は奈良県。
そこに降った雨のほとんどが紀州(和歌山県)に流れていく。
なんとか吉野川の水を大和平野へひけないものか(分水という)。
これが大和平野の農民のかなわぬ夢でした。
(近畿農政局HPより)


文化住宅

※現在の道路と同じ車幅
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