前に訪れました~ ※鳥居前~ |
嘉永期の石燈籠 ※神宮寺の名残? |
難波金兵衛さんとは 銘の書体は違いますね。 ※ |
蟻の宮 高座(たかくら)神社は別名 「蟻の宮」とも呼ばれています。 伝承によると文武天皇の慶雲3年(紀元1366 706年)田植えも無事に終えた其の夏。 一滴の雨も降らず・日照りが続いて大旱魃となった。 雨が降らなければ稲は枯れ・米の収穫が無ければ食べていけません。 人の力では如何する事も出来ず、神様にお願いするしか他に良い思案も有りません。 村人達は高座宮に七日籠もっての 雨乞い祈願を行っていました。 田の様子が気になり心配して見に出たところ、 足下に蟻の大群が一筋の黒い筋となって高座神社の方に向っており、 其れを追い伝っていくと岩の塚付近の窪みで、蟻の姿が見えなくなります。 此の神霊「神の導き」に相違ない…村人達は蟻が姿を消した窪地辺りを掘ってみると、 其処からは滾々と清水が湧き出してきた。 (丹波霧の里HPより) ※延喜式内社 蚕宮碑も |
手水鉢 ※細見 綾子(ほそみ あやこ、1907年3月31日 - 1997年9月6日)は、 兵庫県出身の俳人。松瀬青々に師事、「倦鳥」を経て「風」同人。夫は沢木欣一。 1907年(明治40年)、父・細見喜市、母・とりの長女として兵庫県氷上郡芦田村、 現・兵庫県丹波市青垣町東芦田に生まれる。 実家は江戸時代から名主をつとめた素封家。 1919年、柏原高等女学校に入学、寮生活を送る。1923年、日本女子大学校国文科入学。 1927年(昭和2年)、同大学を卒業、同時に東京大学医学部助手の太田庄一と結婚。 1929年、夫を結核で失い、秋に肋膜炎を発病したため帰郷。 佐治町の医師でもあった俳人・田村菁斎の勧めで俳句を始め、 松瀬青々の俳誌「倦鳥」に入会、その年に投句し初入選する。 1934年、大阪府池田市に転地療養。1937年、青々が没し、その遺稿集の清書・編集に携わる。 1942年、後の夫沢木欣一と知り合い、沢木が出征した際には句集の草稿を預かり出版に尽力した。 1946年、沢木の「風」創刊に同人として加わり、1947年、沢木と結婚。「風」編集兼発行人を務めた。 肋膜炎の完治後、1956年に東京都武蔵野市に転居。 1965年、母校である芦田小学校の校歌の作詞を手掛ける。 1952年、第2回茅舎賞(現・現代俳句協会賞)受賞、1975年、句集『伎芸天』で芸術選奨文部大臣賞を受賞、 1979年、句集『曼陀羅』他の業績により蛇笏賞を受賞、 1981年、勲四等瑞宝章を受章。 1997年9月6日、90歳で死去。 代表句として、 そら豆はまことに青き味したり チューリップ喜びだけを持つてゐる ふだん着でふだんの心桃の花 つばめ/\泥が好きなる燕かな 鶏頭を三尺離れもの思ふ 女身仏に春剥落のつづきをり などがある。青々晩年の「倦鳥」にて古屋秀雄、右城暮石とともに若手の代表作家として活躍、 師・青々の作風から強い影響を受け、写生に徹しながらなおかつ主情的・直感的な句をものした。 (Wikipediaより) |
杯状穴 信仰の証だそうで~ 石段に刻まれているのは危険かと~失礼! ※赤ペンが~多いです。 |
これも~ ※ |
手水舎 ※手水鉢 |
マスクしている狛犬 綿貫重吉之作 (丹波佐吉の弟子とか) 阿 ※吽 |
尻尾の透かし彫りや流れ方は 流石です。 ※ |
大きな 石工銘 存在感が~ ※由来記 |
狛犬に関する報告書 ※ |
拝殿舎前の菊の懸魚 龍と麒麟 ※トタン被せの下は檜皮葺ですね。 |
木鼻の象と獅子は ※彫が細かい |
龍の髭は鉄髭では無いですが~ 中井権次一統さんですかね。 ※うっとりします。 |
立体的な彫り物 ※ |
唐獅子 其の1 ※其の2 |
其の3 ※扁額 |
仙人像 ※見事なバランス! 宮司さん曰く中井権次一統さんだそうで~ |
本殿舎前狛犬も~ 阿 ※吽 |
其の4 |
鶴に載った仙人 前には~ ※ |
上半身が無いですね。 ※本殿舎側面 |
朱雀ですかね ※見返った朱雀 |
兎 ※ |
境内社 兼朝神社サン ※ |
境内社 芳魂神社 ※本殿舎左側風景~ |
若宮神社 ※正面龍 |
や 木鼻は側面だけですが~ 猪 ※裏側の彫は 蓮 |
右側風景~ ※お邪魔しました~ |
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