亀岡街道沿い~
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一本一得!
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佐保川渡って~
※左 たんご
妙見
道標
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橋の名は?
※にいやばし石碑
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此処にも~
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この地区の
丘を見たら古墳群を思いますが…
※先へ~
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佐保川沿いを~
※離れて~
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新旧家屋
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将軍山住宅
※上っています。
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住宅地を抜ければ~
※追手門学院大学
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住宅地と里山の境目を~
※此処から徒歩で上ります。
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大織冠神社碑
※鳥居は~
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文政期の物
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将軍山古墳群(しょうぐんやまこふんぐん)は、大阪府茨木市安威にある古墳群。
史跡指定はされていない。
大阪府北部、北摂山地から南に派生する丘陵上に営造された古墳群である。
前方後円墳1基(2号墳)・円墳5基の計6基から構成される。
2-7号墳は発掘調査のうえで宅地開発により消滅し、現在では1号墳のみが遺存する。
(Wikipediaより)
※1号墳が大織冠神社とか。
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また、佐保川対岸に位置するほぼ同時期・同規模の紫金山古墳(茨木市室山)との
対応関係が注目されるほか、阿為神社所蔵の三角縁唐草文帯二神二獣鏡を本古墳出土品とする説がある。
2号墳以外の5基は、いずれも古墳時代後期の6世紀代の築造と推定される。
そのうち唯一現存する1号墳(将軍塚古墳)は、丘陵の山頂部に位置する古墳である。
主体部の埋葬施設として右片袖式の横穴式石室が南方に開口する。石室の石材は花崗岩で、
玄室は長さ5.7メートル・幅2.3メートルを測る。
早くから開口して盗掘に遭っているため副葬品は詳らかでないが、
明治期のウィリアム・ゴーランドによる調査で遺物が出土している(現在は大英博物館所蔵)。
『摂津名所図会』に記述が見えるほか、古くから藤原鎌足の墓に比定する説があり
現在も大織冠神社として祀られているが、古墳の年代観とは大きく異なるため現在では否定的である。
また1号墳以外の4基については、副葬品の内容から4号墳→5号墳→3号墳→7号墳の順に
築造されたと推定される。
(Wikipediaより)
※裔孫従1位勲1等藤原朝臣道孝銘
藤原 道隆(ふじわら の みちたか)は、平安時代中期の公卿。
藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原兼家の長男。官位は正二位・摂政・関白・内大臣。
花山天皇退位事件(寛和の変)で父兼家の意を受けて宮中で活動。
甥にあたる一条天皇の即位後は急速に昇進した。
娘・定子を女御として入内させ、後に中宮となす。
父・兼家が死ぬと後を継いで関白となる。
朝政を主導するが僅か5年ほどで病に倒れ、嫡男・伊周を後任の関白にと願うが、
天皇からは許されず、薨御した。
(Wikipediaより)
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古墳群のうち2号墳(将軍山古墳)は、丘陵の南端部に位置した大型前方後円墳である。
墳丘主軸を南北方向として前方部を南方に向け、墳丘長は107メートルを測った。
墳丘は3段築成。墳丘表面では葺石のほか、円筒埴輪(器台形円筒埴輪含む)
・壺形埴輪、動物形土製品が検出されている。
主体部の埋葬施設は竪穴式石室で、石室主軸を墳丘主軸と直交する東西方向とした。
石室は四国地方の吉野川流域の結晶片岩によって構築され、
石室内部からは副葬品が多数検出されている。
築造時期は古墳時代前期の4世紀中葉頃と推定される。
現在では墳丘は失われているが、石室が1号墳(将軍塚古墳)の西側に移築保存されている。
様相には四国地方東部との関連性が指摘されるとともに、
移築に際して竪穴式石室の詳細な調査が行われた例として重要視される。
(Wikipediaより)
※2号墳
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北摂の山裾で遊んでいます~
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京大阿武山観測所
美人山の山頂には,阿武山古墳が存在します。
この古墳は, 初代所長志田 順が,
地震計用のトンネルを掘削しているとき(1934年)に
偶然発見したもので,石室からは
漆塗りの棺に横たわった貴人(のミイラ)が現れました。
志田は,埋葬物について,当時としては最新技術である
X線写真を撮っていました。
しかし,「不敬」にあたるとしてその存在は内密にされ,
1982年に観測所の物置の奥からX線写真が再発見されるまで
歴史に埋もれていました。
再発見されたX線写真の解析により,
貴人が頭を横たえていた枕はガラス玉を銀の糸でつないで
錦でくるんだ「玉枕」であること,
衣は金糸の刺繍があったことから,
貴人の身分の高さが想像され,藤原鎌足ではないかと言 われています。
1983年,文化庁により阿武山古墳として 史跡指定されました。
(京都大学防災研究所HPより)
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