元は天神社さんの境内地ですと… 枚方の鋳物師田中家 田中家は、古くから、河内国茨田(まった)郡枚方村(現在の枚方市枚方上之町)で 鋳物業(いものぎょう)を営んでいました。 江戸時代の鋳物師(いもじ)は、公家(くげ)の真継(まつぎ)家の支配下にあり、 田中家は北河内で唯一、正式に営業を許可された鋳物師でした。 さらに、真継家から「河内国左右惣官鋳物師」に任ぜられ、 河内の鋳物師を統率する営業規模の大きい由緒ある鋳物師として認められていました。 田中家は、江戸時代を通じて、近隣の人々が日常生活に使う鍋・釜や農具のほか、 寺院の梵鐘なども鋳造(ちゅうぞう)しました。 明治以降、日本各地に近代的な工場がつくられてからも、 伝統技術を守って営業を続けましたが、昭和35年頃に廃業しました。 枚方市では、貴重な文化遺産である鋳物工場と主屋の寄贈を受け、 両建物を移築・復原し、全国でも珍しい鋳造関係の専門資料館として整備しました。 (枚方市HPより) 前回が閉館していたので~ ※開いてました~ |
助かります。 ※本日の相棒を 休憩させて~ |
田口山遺跡 山田池の北側なんですね。 枚方市立田口山小学校(ひらかたしりつ たのくちやましょうがっこう)は、 大阪府枚方市田口山三丁目にある公立小学校。 地域の宅地化により、周辺の4小学校の校区を再編する形で1975年に開校した。 学校敷地は、弥生時代の遺跡・田口山遺跡の上に立てられている。 校門近くには田口山遺跡の説明板があり、また遺跡保護のため運動場には盛土が施されている。 田口山については、学校周辺の地名は「たぐちやま」と読ませるが、 学校名は「たのくちやま」と読ませる。 もともとの地域名は「たのくちやま」だったが、1980年の枚方市条例により 地名は「たぐちやま」と読ませるようになった。 学校名に古い地名の読みが残った形になっている。 (Wikipediaより) ※前の~ 寝屋川から生駒連山沿いに 遺跡群が続いているんですね。 |
昔も大工さんが居たんでしょうかね? ※赤土でしょうか? |
三和土かな? |
弥生時代の竪穴住居が 再現されていました。 ※茅葺屋根は大好きです! 前には~ |
竪穴式住居(たてあなしきじゅうきょ、英: pit-house, pit-dwelling)は、 地面を円形や方形に掘り窪め、その中に複数の柱を建て、 梁や垂木をつなぎあわせて家の骨組みを作り、その上から土、 葦などの植物で屋根を葺いた建物のことをいう。 なお、「竪穴住居」(たてあなじゅうきょ)と表記することもある。 (Wikipediaより) ※煙抜きも~ |
床の中央か一方に片寄って炉がある場合が普通であり、 古墳時代以降は壁際にカマドを設ける事例が一般化する。 排水のため床の周りに溝を巡らしていることも多い。 竪穴(縦穴)建物の屋根の軒先は地面付近まで下がることが多かったと推測され、 外からは屋根しか見えなかったものと考えられる。 屋根はアシやカヤなどの茎で葺いたことが多かったと思われるが、 土葺、草葺の屋根も多かった。 学校教科書などには、茅などで葺いた想像図が多く載るが、 1990年代以降は樹皮を敷いて土をかぶせた土葺(土屋根)で復元された竪穴住居遺跡も多い。 これは発掘時の土壌・遺物分析で茅由来の物質が見つからなかったり、 当時の地形・植生では茅の採取が難しいと推測されたりしたことによる。 (Wikipediaより) ※ |
確かに こんなに奇麗に刈り込まれた 屋根を写真で見たのですが… ※ |
芸術的ですもんね。 ※ |
旧田中家主屋 大阪府指定有形文化財とか この家は、田中家の表屋(オモヤ)として使われていたものです。 北河内一帯の農家は屋根にわらなどを葺いていましたが、 田中家は鋳物師(イモジ)という火を使う仕事をしていたためか瓦を葺いています。 しかし、その他は農家とほとんど変わりません。 家の中は、約半分を畳敷、残り半分を土間とし、 土間の奥にはカマヤと呼ばれる炊事場があります。 畳敷部分は「田」の字形に部屋を区切り、それぞれを使い 分けていました。 ナカノマは入口に一番近いため日常的な客の接待に使い、サシキは正式な客間、 ダイドコロは食堂兼居間、ヘヤは寝室に使っていました。 (主屋の間取りより) ※井戸でしょうか? |
オクドサン ※ |
達磨ストーブですね。 欲しいなぁ~ ※銘々火鉢 |
炬燵ですね。 ※懐かしいですね。 |
丸テーブルは 案外新しいと伺いましたが~ ちゃぶ台、チャブ台(ちゃぶだい)は、日本で用いられる四本脚の食事用座卓である。 一般的に方形あるいは円形をしており、折り畳みができるものが多い。 上座、下座という上下の関係があまり感じられず、 昭和初期の家族の団欒を象徴するシンボルとして取り上げられる。 1887年(明治20年)ごろより使用されるようになり、1920年代後半に全国的な普及を見た。 しかし1960年(昭和35年)ごろより椅子式のダイニングテーブルが普及し始め、 利用家庭は減少していった。 (Wikipediaより) ※子守フゴ |
色々な灯 ※ |
枚方大橋開通記念 枚方大橋 淀川に架かる橋のうち、大阪府内で一番上流にある橋である。 長さは689メートル。 中世以前、淀川には長柄橋と山崎橋という2つの長大橋が架けられていたが、 度重なる流失・破壊と中央集権体制の弱体化により維持できなくなり、いつしか廃絶となった。 それ以降、明治維新以前には淀川の大川と中津川分岐点より上流には橋が架けられた記録はなかった。 枚方宿の近くには、昭和時代以前は現在の橋付近に渡し船があった。 1930年に初代の枚方大橋が完成し、2車線の道路橋として使用された。 両端部は15連の直弦トラス構造であり、京阪電気鉄道の旧宇治川・木津川鉄橋を転用のため移設したものである。 また、中央部は2連の曲弦トラスが新規製作された。 現在の橋は2代目である。 旧橋の老朽化による代替と交通容量拡大のため「都市計画道路枚方高槻線」の一部として計画され、 1967年にまず上流側の2車線分が竣工したのち旧橋を撤去し、1971年に下流側へ拡張され両側4車線となった。 (Wikipediaより) ※カンカン(秤)もあります。 |
唐箕(とうみ)とは、臼などで籾殻をはずしたあと、 風力を起して穀物を 籾殻・玄米・塵などに選別するための農具。 中国で開発されたといわれており、宋応星の『天工開物』に「風扇車」として最初の記述が見られる。 日本では、佐瀬与次右衛門の『会津農書』(1684年刊)で紹介されたのが最初である。 『和漢三才図会』(1712年刊)にも記載されており、そのころから日本の農家にも広がっていったと考えられ、 近世期から現代まで使われてきた。 稲作が機械化したのちも唐箕は豆やソバ等の選別に使われ、現在でも農機メーカーからかつての 木製のものと基本的に同じ構造の唐箕が市販されている。価格は数万円程度である。 (Wikipediaより) ※奈良電狛田駅前 近くは~ 奈良電気鉄道(ならでんきてつどう)は、 現在の近畿日本鉄道(近鉄)京都線に当たる鉄道路線を建設した鉄道会社である。 通称は「奈良電」、「奈良電鉄」。沿線で路線バス事業も行っていた。 本社所在地は現在の京都市伏見区、桃山御陵前駅前に位置していた。 京阪電気鉄道と大阪電気軌道(通称:大軌、近鉄の前身)両社及び 関係者により大部分の株を引き受け、設立。 戦後には京阪・近鉄いずれの路線とも直通運転を行っていたことがあった。 その後、京都・奈良の観光開発を積極的に推し進めていた近鉄が、 1963年(昭和38年)にその一環で奈良電気鉄道を合併、その路線を自社の京都線とした。 (Wikipediaより) |
今度、探してみますか~ ※懐かしいなぁ~ 氷を入れる冷蔵庫 友人が元氷屋さんでしたので… 夏場は忙しかったと~ 我が家には無かったと思います。 |
鍋敷きと非消壺 ※天秤棒 |
羽釜と鍋 ※石製の流し台 水壺 |
ホッと一息~温かい お茶飲みたいなぁ~ ※遺族の家札 誉の家、誉れの家(ほまれのいえ)は、特に第二次世界大戦前後の時期の日本において、 その一家から出征した兵士が戦死したことを指す表現。 戦死者が出た家には、玄関などの表札と並べて「誉の家」と記した札などを 掲げることが一般的に行なわれていた。 戦時中、誉の家は、周囲から尊敬を集めていたとされる。 また、少国民歌として戦時中に作られた唱歌「お山の杉の子」の歌詞にもこの表現が用いられている。 同様の表現としては、言葉を足した「誉れの家庭」、「軍国誉れの家」のほか、 「名誉の家」、「遺族の家」、「勲の家」などの表現も用いられた。 また、戦死者が出た訳ではないが、出征兵士を出した家に「応徴の家」と表札を掲げることもあった。 「譽の家」菊の紋章、木製 「譽之家」桜と波の意匠、鉄製 「遺族の家」菊の紋章、アルミ製、5cm×16cm また、ステッカー様のものが用いられることもあったとされる。 (Wikipediaより) |
旧田中家鋳物工場は、江戸時代の貴重な鋳物工場です。 鋳物業は溶解した金属を、鋳型に流し込んで製品を作る仕事です。 屋内が高温になるので、細長い建物の土壁に多数の格子窓を規則的に配して、 風通しをよくしています。 また、瓦屋根中央には、こしき炉の熱気を逃がすために、風袋を設けています。 (枚方市HPより) ※無料ですし勉強になります。 子供達の休みの自由勉強に お勧めですよ! |
桟瓦、鋳物師の証 ※ |
犂 日本においてプラウは、その伝来の経緯から犂(すき)と呼ばれ、 カラスキ(唐犂)、もしくはクビキスキ(軛鋤・頸木鋤)や 牛(馬)引き鋤(うしびきすき、ぎゅうひきすき/うまびきすき、まびきすき)・ 牛鋤/馬鋤(うしすき、ぎゅうすき・うますき、ますき)とも呼ばれていた。 正倉院に収蔵されている子日手辛鋤(ねのひのてからすき)は、 758年正月の行事に使われたと伝えられており、 また、滋賀県草津市の中畑遺跡からは平安時代のカラスキが出土している。 なお、牛馬に牽引させる犂(すき)と手に持って使う農具の鋤(すき)は異なる農具である。 また、「犂」という漢字は俗字扱いであり、正字体は「犁」である。 犂の種類には、中国から伝来し、大化の改新の時代、時の政府が推奨した長床犂と、 朝鮮半島からの渡来人がもたらした無床犂があり、長床犂はプラウのヒールに相当する床が長く、 安定して耕起することが出来て取り扱いやすい反面、 大きな牽引力が必要で長い床の為に深く耕すことが出来なかった。 一方、無床犂は床がないために深く耕すことが出来たが、取り扱いには熟練を要し、 その取り扱う姿から抱持立犂(かかえもったてすき)とも呼ばれた。 最初に犂が伝来した九州の北部をはじめ、西日本では犂を使っての耕起が盛んであった。 後に明治から大正期にかけて長床犂、無床犂それぞれの長所を取り入れた 日本独自の短床犂が作られ、畜力による犂耕が全国的に普及した。 その後、牛や馬による畜力から、内燃機関を原動力にしたティラーや耕耘機へと牽引の動力は移り変わり、 昭和30年代、耕耘機によるロータリー耕が普及したことにより、稲作での犂による耕起法は衰退した。 (Wikipediaより) ※神社用釜 鋳物師の名が入っています。 |
移築前の田中家には 椋(椋の木の葉の表面がザラザラしており、鋳物製品を磨くのに用いられた。)が 目印だったとか~ ※釣鐘の部品 |
土型(鋳型)は オーダーメイドですね。 ※ |
鋳型の原型 ※ |
このポストも 鋳物ですがね。 ※工場裏側 |
私の親父も 元鋳物師でした。 懐かしい時間が流れています。 ※ |
飾り瓦は 戎 ※大国 縁起ものですね。 |
一番気に成ったものは~ 多くの石仏 ※多宝塔の頭も~ |
街道沿いの地蔵尊 と思えば~ ※観音様も~ |
神仏分離で廃寺の跡から? と思い施設の方に伺ったら~ ※多宝塔の部品も多数! 施設の方に伺ったら 古墳や遺跡の周りから 出土した石仏の集積地とか~ 信仰物としてだけでなく データベースにしても良かったかも… |
柱の土台石や石臼 ※道標や用地杭 禁野村・中宮村立合も~ |
陸軍省用地は 禁野辺りから多かったんでは? ※道標 右 なぎさ 左 読めない… 何処に有ったんでしょうか? |
唐臼 ※狛犬や力石は見られなかった。 杯状穴も… |
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