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令和元年、2019年の〆…年末は~
生駒山の西麓を~東高野街道の成立するまで、
以前に自然発生的に成立した山根街道。

冬晴れの里山と渡来人の足跡と!
今ですよ今!
前の~続きで近くは
枚方市津田元町(春日神社)~ 03

だからいつもの神社・仏閣と路地・旧村探し~
JR大阪東線の恩恵で輪行ポタ~相棒自転車は…プー太!
まだサンはブロ君でリベンジのタンデムポタ!!
※マウスポインターを置いてください。 
                                           撮影:令和元年12月29日
                                           UP日:令和二年02月25日


JR学研都市線潜って~




※障子紙が懐かしい~




右 ひらかた
左 のざき大坂 道



手製の案内板



為 釈 法音
多宝塔の頭

※天保期
山邑興兵衛

脇道も絵になります。
Kさんの絵にも有ったかも?

※福助ミシン
福助株式会社(ふくすけ)は、東京都渋谷区に本社を置く
足袋・靴下・ストッキング・下着などの製造販売をおこなう企業である。
大阪・堺にて創業した足袋の老舗としてその名を知られるが、
2003年の倒産後は東京に経営基盤を移している。
創業者の辻本福松が、1882年に大阪・堺で足袋の製造販売をおこなう「丸福」を創業させる。
しかし丸に福を入れただけの商標は、すでに他の業者が商標として登録していたこともあり、
伊勢詣での際に福助人形を見つけたことから、これをもとに挿絵化、
1900年に「福助印堺足袋」として商標登録をおこなう。
またその間の1895年には足袋用のミシンを開発し、足袋の大量生産化を成功させる。
(Wikipediaより)


見返って~
山根街道は
此処の上を通っています。

※瓦製ウサギ

下の道の戻って~



此処も絵になります。

先には
神社の杜が~

※小さな太鼓橋も~

扁額

※注連縄も~

手水鉢

※燈籠に杯状穴が~
 
手水鉢にも~



まだサン嬉しそうに~



撮影中~


 
国旗掲揚台

社務所前の瓦にも~

※「学」?
何やろか?

生駒山の周りには春日神社が多い地区です。
春日神社本殿は奈良春日大社の旧本殿を移築した「春日移し」、
末社若宮八幡宮本殿は奈良春日大社末社三十八所神社の旧社殿を移築した「三十八所移し」です。
「春日移し」は全国で30棟を数える一方、「三十八所移し」は、奈良県内に7棟、
大阪府内でこの1棟しか確認されていません。
両社殿とも、春日大社所蔵の「河州交野郡津田村春日遷宮記」により、
明和3年(1766)の建立で、天明6年(1786)に譲り受けたことが判ります。
平成23年4月1日、有形文化財に指定。
(枚方市HPより)


※此処にも東向いた遥拝所

拝殿舎正面

※拝殿舎飾り瓦

本殿舎(右側)
若宮八幡宮本殿(左側)
檜皮葺ですね。

※拝殿舎内に絵馬が~

絵馬

※大正期の物
大正年間に始まった全国中等学校優勝野球大会は、豊中球場に始まり第3回大会から
兵庫県武庫郡鳴尾村(1951年に西宮市と合併)にある鳴尾球場で開催されていた

中略
完成するまでの名称は枝川運動場だったが大正13(1924)年が
十干十二支の最初の組み合わせである甲子年(きのえねとし)という縁起が良い年という事もあり
後に甲子園大運動場(こうしえんだいうんどうじょう、看板表記は阪神電車甲子園大運動場)と命名。
起工式は1924年3月11日に行われ、同年8月1日に竣工式が行われた。
(Wikipediaより)


昭和30年
枚方市・津田町合併記念

※真ん中に甲冑
何やろか?

ありゃ~破れてる…
願主 久和世座

※こちらも…
もったいない。。。

ガラスで覆われてますが~

※馬上から弓矢で猪やシカを狙っています。
狩りですかね?

献字集
昭和29年銘

※小学生の奉納文字

明治期の奉納絵馬
木目込み額

※山鳥から九官鳥まで~

 裁縫師 中嶽俊枝

昭和6年の絵馬
正義
津田村 (大阪府)
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、交野郡津田村・野村・春日村の区域をもって発足。
1896年(明治29年)4月1日 - 所属郡が北河内郡に変更。
1940年(昭和15年)11月15日 - 氷室村・菅原村と合併して津田町が発足。同日津田村廃止。
(Wikipediaより)

村会議員では?

※相撲番付

明治元年
大坂相撲でしょうか?

※行司 木村与太郎
勧進元 玉出川興吉
取頭 小野川濱五郎
小野川(おのがわ)は日本相撲協会の年寄名跡のひとつであり、
大阪相撲から引き継がれてきた由緒ある名跡で、
初代・小野川が四股名として名乗っていたものが年寄名(大阪相撲では頭取名)となった。
名跡の所有者であった北の湖敏満が2015年11月に死去して以降は北の湖の遺族が所有していたが、
北の湖の直弟子であった北太樹明義が2018年1月に引退した際に継承し、約33年振りに継承襲名された。
(Wikipediaより)
大和野口村の西蓮寺住職竹園眞證が書き残した
天保から明治5年までの記録を大和高田市の古文書を読む会の人たちが
『竹園日記』3冊にまとめた。
住職は相撲も好きで、付近の村での相撲や大坂相撲にも触れている。
明治3年7月22日に「当月初めのことだけれど、大坂で小野川部屋の関取たちが
天王寺のあたりを通っていたとき、異人が連れる犬が吠えかかってきた。
相撲取りたちは犬を捕まえて投げ殺す。
怒った異人が関取に飛びかかったところ、この人たちをもあやめてしまう。
後日異人は役所に犯人をもらい受けたいと届け出る。
大坂の頭取は相談し、相撲取り200人の面前で渡すので受け取りに参られよと返答。
異人はその形勢を恐れて受け取りをあきらめる。
この始末に小野川濱五郎一人が入牢、このたび御免出牢、評判を高め、
近々大相撲興行、格別の大相撲興行となる由」といったことが記されている。
この小野川濱五郎は大和高田に近い新庄町の出身で、義侠心が極めて高い人物。
天保14年閏9月20日には麻山の相撲で勧進元をつとめ、
「大男鼓ヶ滝調右衛門来、生年十七才、丈七尺余、目方四十貫」の記述もある。
(相撲の史跡・好角土俵 好角家・相撲史研究者たちの情報より)


生駒山系付近には~
01 02

見返って~



脇道は~旧村の境界線だった?

※名残の柿も赤く朱く~

防火用水桶

※コンクリ製

築地は神宮寺の名残?

※見返って~

薬局

※先へ~

柿の実も絵になって~
ブルーシートは台風被害?

※反対側は~


※手水鉢

地蔵尊

※奇麗な丸

脇の路地

山根街道が合流して
前には



民家の庭に~

※石燈籠が~
街道沿いですから…

読めない…



二月堂銘

※奈良に続く道~
01 02

府道736号線

※左が街道

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