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令和元年、2019年の晩秋は〜
刈穂の圃場、燃立つ紅葉、古の職人技の集積地…

分水嶺の地、篠山から春日へ!
秋晴れの里山と有名人の足跡と!
今ですよ今!
前には〜
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中井権次一統作以外の彫物師も…ほぉ〜と感嘆が漏れます。
宮田(天満宮神社)〜 04

だからいつもの神社・仏閣と路地・旧村探し〜
JR大阪東線の恩恵で輪行ポタ〜相棒自転車は…英国車BSA号!
浮ドン・まだサンはブロ君でトリオポタ!!
※マウスポインターを置いてください。 
                                           撮影:令和元年12月01日
                                           UP日:令和二年01月07日

丹波篠山市役所
西紀支所
西紀町(にしきちょう)は、兵庫県中部にかつて存在した町。旧多紀郡。
1999年4月1日に篠山町・今田町・丹南町の3町と合併、篠山市となったため消滅した。
合併直前に町役場を新築したばかりだった。
なお「西紀」とは合併時の新地名で、多「紀」郡「西」部に「錦」をかけたもの、と言われる。
(Wikipediaより)




旧西紀町の中心部だった?

※道標見っけ!

宮田集落の中央、県道篠山三和線と旧県道篠山長安寺線の交叉点にある道標です。
高さ145p、幅30pの石角柱に東面「なりあい兵主山 」、南面「たしま」、
南面「たしま」、西面「すく京いせ」、北面「すくきよ水」と刻まれています。
また、この道標には、天保15年(1844)に当時の高屋村「文左衛門」が建立したとの銘も残されています。
宮田は、中世には市場として、江戸時代には宿場町として賑わった土地柄です。
ここを通る西国巡礼の旅人のために、第25番札所「播州清水寺」から第26番札所「丹後成相寺」への
道案内のため建てられたものです。
(篠山市HPより)


※西国三十三所(さいごくさんじゅうさんしょ、さいこくさんじゅうさんしょ)は、
近畿2府4県と岐阜県に点在する33か所の観音信仰の霊場の総称。
これらの霊場を札所とした巡礼は日本で最も歴史がある巡礼行であり、
現在も多くの参拝者が訪れている。
「三十三」とは、『妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五』(観音経)に説かれる、
観世音菩薩が衆生を救うとき33の姿に変化するという信仰に由来し、
その功徳に与るために三十三の霊場を巡拝することを意味し、
西国三十三所の観音菩薩を巡礼参拝すると、現世で犯したあらゆる罪業が消滅し、
極楽往生できるとされる。 令和元年に日本遺産に認定された。
(Wikipediaより)


左 京・いせ
は、基本ですかね。

往時の旅人思いながら〜

※天満宮神社サン正面

手水鉢横に、お邪魔して〜

※ゴヨウマツ
原産地においては樹高15-20 m、もっと大きくなることもある。
樹冠は円錐型だが、老齢の個体では扁平であり不規則に生長する。
原産地以外に植栽されたものは樹高6-8 mにしか成長しない。
樹皮は若い個体では滑らかで明るい灰色から灰褐色である。
老齢個体ではくすんだ灰色で、一般的にうろこ状に大きく裂ける。
針葉は青みを帯びた緑色で長さは5-6 cmで5枚が束生する。

雌雄同株であり、一つの個体に雄蕊だけを持つ雄花、
雌蕊だけを持つ雌花の2種類の花をつける。
雄花はピンク色で大きさは7-10 mm、花粉は風で運ぶ風媒花である。
毬果(松かさ)が熟すのは2年目の終りである。
毬果は大きさが4-7 cmの卵型で、はじめは緑色だが熟すと茶色に変わり、
鱗片を開く。種子は大きさ1 cmほどで2-10 mm ほどの翼を持つ。
(Wikipediaより)


昔から人の集まる地区だったんですね。
この石垣が物語っています。

※五葉ですね。

増毛思想と同じ…



名木を大切に守ろう〜!

※此処も拝殿舎無

玉咥え狛犬


※吽

拝み石

※此処も見事な木彫が〜

袖壁は〜
仙人図



木鼻も手挟も〜

※透かし彫りが〜

本殿舎正面

※賽銭桶…
鎖が防犯設備?

 扁額

木彫落ちてますが…

※どこの部品?

本殿舎側面にも額が〜



麒麟

※象と獅子

本殿舎裏面

※側面

中々の造形美です。

※雉でしょうか?

正面龍
鉄髭は見られない〜

※裏側には銘は無し

境内摂社



袖壁に〜
戎さま
竹に虎?

※龍

小さいですが手は抜かずに…
宮大工の腕の見せ所

※玉垣?
石橋の床版でしょうか?

宿場町だったんですね。



参道見返って〜

※脇の光照寺さん
元は神宮寺?

五葉松が綺麗に〜



石垣に銘も〜

※手入れはされています。

ウネリナガラ〜



遠くからでも〜

※光照寺さん

銀杏が散って
黄金の路地が〜

※来年は大河ドラマに!
えっ?エリカ様が捕まった。。。

覚山天誉上人
足利幕府は華麗な幕府であったが、一方では13代将軍義輝が家臣の三好義継、松永弾正久秀らに
殺されるなどの悲劇も綴られている。その将軍の嫡男が、ここ多紀郡(篠山市)に眠っている。
永禄8(1565)年、義輝が殺害されたとき、その嫡男、義高(幼名は乙若丸)は義輝の近臣、
北川六郎右衛門久寿らに助けられ、京都の誓願寺(浄土宗)に逃れて仏門にはいる。時に義高3歳であった。
同寺の教山善誉上人に育てられた後、丹波八上城の波多野秀治に身を預けられる。
長じた義高は再び上京し、誓願寺で善誉上人に師事した。
修行の之地、八上城の山麓に誓願時を創建して、その開祖、覚山天誉上人と称した。
慶長14(1609)年に篠山城が築かれて、八上城下の商家も寺も全て篠山の城下町に移転することになった。
この寺も移され現在ある魚屋町の誓願寺となった。
天誉上人は晩年、誓願時の西約5キロにある廃寺、浄福寺(宮田)に隠居して、
悠々自適の余生を送った後、元和10(1624)年1月10日世を去り、同寺跡に葬られたとされている。
享年61歳であった。
その地の人たちは、篠山誓願寺の開祖であり、世が世なら将軍となったであろう
覚山天誉上人の遺徳をしのんで、誰かれとなく石塔に花を手向けては線香を供え、
毎年の命日には村の人たちが集まり、上人を慕って法要を営んでいるという。
(篠山市HPより)




お寺の境内



彰魂碑

※撮影中〜

地蔵尊
御共の小僧さん付

※市内最大級の宝篋印塔である。
台石は複弁の反花座をつけ、四面に輪郭をとった格狭間を刻む。
軸石は後世に燈籠化されくり抜かれ、月輪内の四仏の種子は判別できない。
笠の隅飾り突起はほぼ直立し2弧の輪郭が刻まれている。
相輪も立派で全体的にバランスのとれた宝篋印塔である。
造立年代は明らかではないが、各部の手法からみて鎌倉時代後期を下らぬものと見られる。高さ216cm。
(篠山市HPより)


宝篋印塔

※歌が書かれているんですが〜

内部の地蔵尊

※大師蔵

ガメラ屋根

※墓地の上の石碑が気に成ります。

銀杏の黄葉が見たかった!

※古い墓石

多宝塔も墓石も〜

※上部の石票は
お上人の墓標

見返って〜

※黄葉〜

昭和36年銘



境内風景

柿の実が有る風景が好きなんです。
弁柄格子も〜

※被せ屋根集落

被せる前が見たかった!



屋根の厚みが凄い!


平成28年4月14日に九州では大震災(震度7)が熊本に…
平成28年10月21日には鳥取県中部地震(震度6弱)が〜
東日本大震災は8年目に…台風・豪雨水害被害で被災された方々に、
お見舞い申し上げます。
阪神大震災も24年…今年こそエエ年に!
平成末は北大阪大震災・豪雨・台風被害
令和初年は台風15・20号被害に胸が痛みます。
遂に天皇陛下は年下に〜
消費税も10%に!!
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