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2018年の晩秋は〜
やっぱり奈良が好き!
秋晴の一日〜聖徳太子の足跡と勧請相撲…
同じ奈良でも絵馬堂の多い地区〜
今ですよ今!
香芝の名の由来は…へぇ〜!?
門前(達磨寺)  04

だからいつもの神社・仏閣と路地・旧村探し〜

やはり浮ドンとは快晴〜カルテット(quartet)ポタ。。
相棒自転車はブロ君3台とUFO先生2号!

※マウスポインターを置いてください。 
                                           撮影:平成30年11月24日
                                           UP日:平成31年04月15日

達磨寺秋色!

※お邪魔して〜

聖徳太子の愛犬・雪丸の像

※人の言葉を理解し、御経を読め
達磨の墓を守るために自分を葬るように遺言した〜
『おはよう、ごはん』だけでは無い様で…(汗)

伏せ耳のワンコですね。

※ラブラドールレトリバーに似てますかね〜

片岡八郎・春利墓

※片岡八郎は王寺町の出身で、父は鎌倉の家人、
母は大塔宮護良親王の乳母でした。

天皇と大塔宮が鎌倉幕府倒幕を計画するも失敗に終わり、
大塔宮が熊野へ逃げ延びる際お供したうちの一人で、
大塔宮を守り十津川で戦死された人です。
(中略)
大正4年(1915年)11月10日、国から片岡八郎(利一)の、
忠義な行動に対して「正五位」が贈られました。
片岡八郎が十津川で討死して580年以上もたっていますが、
世の中の乱れを治めるために功績を残したことを認めたものです。
昭和15年(1940年)片岡八郎の出身地、王寺町において皇紀2600年の記念事業として、
小学校の校庭に顕彰碑「石心松操」が建設されました。
また、達磨寺の境内には片岡八郎の墓が残されています。
(王寺町HPより)

 
顕彰碑
達磨寺の本堂の西側に「石心松操」と彫られた大きな碑がたっています。
これは、建武の新政を行った後醍醐天皇の第3皇子、
大塔宮護良親王の重要な家臣のひとりで、大塔宮を護り、
国や人々を救おうとした忠義の人、
片岡八郎(本名=利一)の功績をたたえて建てられたものです。
(王寺町HPより)


※松永弾正久秀墓

松永 久秀(まつなが ひさひで)は、戦国時代の武将。
大和国の戦国大名。官位を合わせた松永弾正(まつなが だんじょう)の名で知られる。
弟に長頼、嫡男に久通、養子に永種(貞徳の父)。
初めは三好長慶に仕えたが、やがて三好政権内で実力をつけ、室町幕府との折衝などで活躍した。
久秀は長慶の配下であると同時に交渉の一環として室町幕府第13代将軍・足利義輝の傍で
活動することも多く、その立場は非常に複雑なものであった。
また、長慶の長男・三好義興と共に政治活動に従事し、同時に官位を授けられるなど
主君の嫡男と同格の扱いを受けるほどの地位を得ていた。
長慶の死後は三好三人衆と時には協力し時には争うなど離合集散を繰り返し、
畿内の混乱する情勢の中心人物の一人となった。
織田信長が義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛してくると、一度は降伏してその家臣となる。
その後、信長に反逆して敗れ、信貴山城で切腹もしくは焼死により自害した。
茶人として高名であり、茶道具と共に爆死するなどの創作も知られている。
(Wikipediaより)

達磨寺旧本堂瓦製露盤

※問答石
聖徳太子と達磨大師が
歌を詠み交わした場所とか。

日露戦争忠魂碑



戦役記念碑

※昭和11年銘

達磨寺中興記念碑

※石幢



※今も本堂の下に達磨寺3号墳とよばれる
古墳時代後期の円墳があるとか〜

手水鉢



薬師石
眼を閉じて近寄り、両手で抱けば病気が全癒すると伝えられる石である。
寛政3年(1791)『大和名所図会』に見える
当寺の境内絵図にも「やくし石」が描かれている。

※紅葉の紅葉が綺麗な季節!

達磨寺には「方丈」という建物があり、奈良県指定文化財に指定されています。
「方丈」とは、本来僧侶が居住した建造物のことで、四方が1丈で、方形であることから
「方丈」と呼ばれています。
達磨寺の方丈は南北に2つ、東西に3つに区切られ、真ん中の奥の部屋は仏間となっています。
また、屋根が非対称で、西面は入母屋造、東面は切妻造という、奈良では大変珍しい様式になっています。
そんな達磨寺の方丈ですが、建築されてから350年近く経ち、一度も大きな修理がおこなわれていません。
それに、建物の特徴からほとんど壁がないために、かなりゆがんできています。
達磨寺では、勧進委員会を設置し、方丈修復のための勧進を募っております。
(達磨寺HPより)


※鐘楼

本堂中を見せて頂きました。
襖絵


※葦

木造千手観音坐像
王寺町指定文化財・室町時代
本像は現状で392手あり、もとは500手で構成されていたと考えられています。
すべての掌に玉眼による目が表現されており、精巧な造りの背景には、
当時中興の際の室町幕府の支援があったと推測されます。
(達磨寺HPより)


※歴代徳川家将軍の厨子が
周りに置かれています。

木造達磨坐像
国指定重要文化財・室町時代
銘文によれば、永享2年(1430)に足利義教が命じて制作させたものです。
彩色は画僧の周文が担当し、衣が鮮やかな朱色に塗られ、
髭や胸毛などまでが細緻な筆づかいで見事に表現されています。
(達磨寺HPより)

※木造聖徳太子坐像
国指定重要文化財・鎌倉時代
巾子冠をかぶり、笏を手にとる聖徳太子像です。
銘文から建治3年(1277)に院恵・院道が制作したことがわかります。
袍の皺部分にわずかに彩色が残り、もとは緋色に着色されていたことがうかがえます。
(達磨寺HPより)

 
絹画 聖徳太子像

釈迦涅槃絵図

※解説説明書を頂きました。

扁額 山葡萄図



富田渓仙年賀状
冨田 溪仙(とみた けいせん、1879年12月9日 - 1936年7月6日)は、明治から昭和初期に活躍した日本画家。
初め狩野派、四条派に学んだが、それに飽きたらず、仏画、禅画、南画、更には西洋の表現主義を取り入れ、
デフォルメの効いた自在で奔放な作風を開いた。
(Wikipediaより)




菊花扁額

※達磨図絵

徳川家康朱印状
寺領30石と境内竹林を寄付することを認めたとか。
王寺村から門前村が独立した。

※扁額
牡丹図絵
前に
笑顔の素敵なTさん〜お元気かなぁ?

2002年、達磨寺の本堂を建て替えるときに偶然発見されました。
小さな石室をつくって石塔を納め、上に石で蓋(ふた)をしていました。
石塔のなかには合子(ごうす)という器が入っていて、
合子のなかには水晶製の五輪塔のかたちをした舎利容器が入っていて、
水晶製の五輪塔のなかには仏舎利(ぶっしゃり)が入っていました。
(王寺町観光協会HPより)




床の間の大壷
蓮にコウノトリ

※達磨図絵

聖徳太子と達磨大師の
会話が聞こえそうな〜

※次へ〜
平成28年4月14日に九州では大震災(震度7)が熊本に…
平成28年10月21日には鳥取県中部地震(震度6弱)が〜
東日本大震災は8年目に…台風・豪雨水害被害で被災された方々に、
お見舞い申し上げます。
阪神大震災も24年…今年こそエエ年に!
北大阪大震災・豪雨被害
台風被害の秋ポタを春にUP(遅!)
連続的な台風20〜25号被害に胸が痛みます。
平成の次の元号は令和とか…

久々の4人連れ!
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