駐車場との取り合いみたい〜
※真新しい拝殿舎
現在は万願寺の地名は存在しないが、かつての地名の由来である満願寺と呼ばれた寺が恩智川の東、
現在の東山本町8丁目あたりに存在していたとされる。
しかし戦乱や恩智川の氾濫が度重なっていつしか廃寺となったと考えられ、
『河内志』に廃寺と記されている以外に文献が存在しないとされる。
安土桃山時代ごろに集落の本村を恩智川の西側に移し、
住吉大社より分霊を勧請して祀ったのが現在の東山本町2丁目にある住吉神社の起源である。
江戸時代になると満願寺地域は幕府の天領となり、旗本・大窪加賀守の支配地となる。
18世紀初頭に大和川の川違えが行われ、西を流れる玉櫛川(玉串川)の跡地が新田として開発され、
そのころに村名が萬願寺に変わっている。
19世紀になると、水利権の争いを発端として上之島村内の惣村だった式部村が分村し、
北垣内に御野縣主神社の御神体を祀ったのが現在の式部宮御野懸主神社である。
同じころに新家村も分村して住吉神社の氏子となっている。
このころに旧万願寺地域の範囲が固まっている。
地域は3つの神社と万願寺本村(南之辻)、新家(新家之辻)、御領(中之辻)、式部(北之辻)の
4つの主な惣村で構成されていた。
文化9年(1812年)から小田原藩支配地となる。
(Wikipediaより)
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