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2018年のGWは
和歌山日ノ御埼に行きたいと…
対岸の蒲生田岬には前に行きました。
天気予報は一日中雨ですが…傘さして歩きポタ〜
重厚な本瓦屋根の街並み〜今ですよ今!

有田郡広川町上中野(広八幡神社) 07

だからいつもの神社・仏閣と路地・旧村探し〜

相棒自転車はブロ君達!
一日中雨〜出番は…

※マウスポインターを置いてください。 
                                           撮影:平成30年05月02日
                                           UP日:平成30年10月12日

田杭の集落横目に〜

※低い屋根
台風被害対策でしょうね。

晴れてたら
ゆっくりし自転車で巡りたかったんですが〜

※沖には中磯が見えます。

背の高い堤防と
コンクリートで固められた法面

※阿尾集落

ゆっくりと巡りたい路地ですわ。



ねぇ〜



付近には産湯・由良なんて
魅力的な地名集落があるんですが〜
後日にしますか。。。

※クエ料理なんて看板も
見えたんですが〜

R42水越峠越えて〜

※先には鳥居が〜

直接、湯浅を目指していたんですが〜
いつもの寄り道をば…

※これが大当たり!
立派な楼門

拝殿の前に舞殿

※本殿舎・拝殿舎・舞殿

 禰宜さんの
お話も楽しくて〜
当社はこの地の産土の神として、古来より長きにわたり人々から崇敬されてきました。
神功皇后が三韓を征しての帰途、この有田広村にも行幸されたというご縁があり、
欽明きんめい天皇(6世紀中頃在位)の御代に、河内国誉田こんだ八幡宮より
勧請されたと言い伝えられています。
『紀伊続風土記』によれば、室町時代初期(応永年間)、
梅本覚言うめもとかくごんという土豪が現在地に遷宮したとの記録がありますが、定かではありません。
天正年間には豊臣氏の紀州征伐により一部焼失しましたが、
江戸時代には紀州徳川家の手厚い保護を受け、次第に興隆していきます。
(廣八幡神社HPより)




立派な手水鉢



 舞殿横にある、「盥漱水かんそうすい」と書かれた手水鉢です。
宝暦2年(1752年)、広村(現在の広川町)出身で、
下総州外川浦(現在の千葉県銚子市)に港をつくった
ア山次郎右衛門が奉納しました。
(廣八幡神社HPより)


※鳩フォントも〜

見どころ紹介
助かります!

※覚言社
応永の頃に此地の土豪梅本覚言
其領する地 を神地となして社を遷し奉った


桧皮葺の本殿舎
内部から祝詞の声が〜
厳かな心持ちになりました。

※こちらの手水鉢も気になります。

杉の御神木



綺麗な屋根
うっとりします。

※ついこの間に
朱色に塗りましたと〜

鎮守の杜
正示 啓次郎(しょうじ けいじろう、1911年5月16日 - 1994年4月17日)は、
日本の大蔵官僚、政治家。衆議院議員、経済企画庁長官。
和歌山県出身。耐久中学、浪速高等学校を経て、1933年3月、東京帝国大学経済学部を卒業。
1932年11月、高等試験行政科試験に合格。1933年4月、大蔵省に入り理財局属となる。
その後、国税庁総務部長、同庁次長、大蔵省主計局次長、同管財局長、同理財局長などを歴任。
1959年、農林漁業金融公庫副総裁に就任した。
1960年11月、第29回衆議院議員総選挙の和歌山県第2区に自由民主党から出馬し初当選。
その後、1980年6月の第36回衆議院議員総選挙まで連続8回の当選を果たした。
1983年12月の第37回衆議院議員総選挙に出馬したが落選。
衆議院議員としては、同院沖縄北方特別委員長などを務める。
また、1965年6月に第1次佐藤内閣の外務政務次官、
1979年11月、第2次大平内閣の国務大臣・経済企画庁長官に就任した。
1994年4月17日死去。享年82。
(Wikipediaより)




境内を案内していただきました〜

※石柱
横目に〜

法華経全部一字一石塔

※梧陵濱口君碑
津波から村人を救った広川町の偉人、濱口梧陵の功績を刻んだ碑です。
勝海舟の題額(みだしの題)・撰文(文章を作り、述べること)で、
濱口梧陵がどのような偉業を成し遂げたかについて記されています。
(廣八幡神社HPより)


 広川町指定文化財の「四方唐破風御輿(しほうからはふみこし)」が納められています。
これは文化3年(江戸時代)に現在の長崎県新上五島町より奉納され、
その後平成14年に修復されたものです。
(廣八幡神社HPより)




 濱口 梧陵(はまぐち ごりょう、文政3年6月15日(1820年7月24日) - 1885年(明治18年)4月21日)は、
紀伊国有田郡広村(現・和歌山県有田郡広川町)出身の実業家・社会事業家・政治家。
梧陵は雅号で、字は公輿、諱は成則。
醤油醸造業を営む濱口儀兵衛家(現・ヤマサ醤油)当主で、七代目濱口儀兵衛を名乗った。
津波から村人を救った物語『稲むらの火』のモデルとしても知られる。

安政元年11月5日(1854年12月24日)夜、安政南海地震の津波が広村に襲来した後に、
梧陵は自身の田にあった藁の山に火をつけて安全な高台にある広八幡神社への避難路を示す明かりとし、
速やかに村人を誘導することができた。結果として村人の9割以上を救った(死者30人)。
津波から命を救えるかは、情報の伝達の速さが関わっているという教訓を残した。
これをもとに作られた物語が『稲むらの火』として知られている(ただし、物語は史実とは一部異なる部分がある。
(Wikipediaより)



あの辺りが稲村の火の位置だと
一の鳥居方面を指さされてました。

高嶋先生有りましたよ〜


福石
参拾八貫

 五島石と福石

多くの多宝塔

※境内風景〜

掲示板

※昭和参年銘

荒木 貞夫(あらき さだお、1877年(明治10年)5月26日 - 1966年(昭和41年)11月2日)は、
日本の陸軍軍人、第1次近衛内閣・平沼内閣の文部大臣、男爵。最終階級は陸軍大将。
真崎甚三郎と共に皇道派の重鎮。1933年(昭和8年)、大阪でゴーストップ事件が発生。
陸相であった荒木は「陸軍の名誉にかけて大阪府警察部を謝らせる」と憤慨し、内務省と対立した。
1933年10月には外国人記者団との記者会見において、「竹槍三百万本あれば列強恐るるに足らず」と
口にして座を呆然とさせた(竹槍三百万論)。
さらに来日中のジョージ・バーナード・ショーとの会談において
日本人は地震によって強靭な精神を鍛えたのだと主張した(地震論)。
中略
1966年(昭和41年)10月末、奈良県吉野郡十津川村の招待で同村を訪問し、
同村ゆかりの天誅組・十津川郷士関係の諸史料の調査と講演を行ったが、
同年11月1日、宿泊先の「十津川荘」において心臓発作を起こす。
当時の佐藤栄作首相へ「日本の未来像は、維新の五箇条の御誓文を主とし、
つまらぬ事を付け加えずに、これを達成すること」といった遺言を口述し、翌日死去した。89歳没。

(Wikipediaより)



参道脇石灯篭

※弘化三年銘

平成28年4月14日に九州では大震災(震度7)が熊本に…
平成28年10月21日には鳥取県中部地震(震度6弱)が〜
東日本大震災は7年目に…台風・豪雨水害被害で被災された方々に、
お見舞い申し上げます。阪神大震災も23年…今年こそエエ年に!
北大阪大震災・豪雨被害
灼熱の夏も過ぎに春のポタ(UP遅!)
連続的な台風20〜25号被害に胸が痛みます。
えっ?皆様方、急遽過ぎと体調不良に家事・仕事にて
お休み〜残念!
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