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2018年のGWは
和歌山日ノ御埼に行きたいと…
対岸の蒲生田岬には前に行きました。
天気予報は一日中雨ですが…傘さして歩きポタ〜
重厚な本瓦屋根の街並み〜今ですよ今!

日高郡美浜町三尾(日ノ御埼) 06

だからいつもの神社・仏閣と路地・旧村探し〜

相棒自転車はブロ君達!
一日中雨〜出番は…

※マウスポインターを置いてください。 
                                           撮影:平成30年05月02日
                                           UP日:平成30年10月12日

ビューん!
六輪ポタなんで
自動車移動です。。
ダイワボウの工場横目に〜

※雨雨フレフレ
ナンボデモ…

煙樹ヶ浜尻目に
煙樹海岸を〜

※台風の通り道なんでしょうね〜
四国土佐で見た風景とWます。

此処も又〜

※ねぇ〜

雨はドンドンひどくなって〜

※霧まで…

怪しいなぁ〜

※行き止まりだし…
 
開運厄災除祈願
日の山御崎神社

ようこそミステリーゾーンへ〜

※ヨハネス・クヌッセン(Johannes Knudsen, 1917年12月22日 - 1957年2月10日)は、
デンマーク・フレゼリクスハウン出身の船員。和歌山県日ノ御埼沖での海難救助活動中に殉難した。
その勇敢な行動は顕彰され、日本とデンマークの友好と交流の象徴として語られる。
1957年2月10日午後9時40分頃、名古屋港から神戸港へ向かっていた、
デンマークの海運会社マースク社所属の貨物船エレン・マースク号(Ellen Maersk)は、
和歌山県日ノ御埼沖の紀伊水道を航行中、
徳島県浅川の機帆船(木材運搬船)「高砂丸」が炎上しているのに遭遇した。
風速20mを越える強風の中、エレン・マースク号は「高砂丸」乗組員の救助作業に当たった。
エレン・マースク号は救命艇を下して高砂丸船長を救出するものの、
力尽きた高砂丸船長はエレン・マースク号の縄梯子から海中に転落した。
エレン・マースク号に機関長として乗り組んでいたクヌッセンは、
高砂丸船長を救うべく海中に飛び込んだが、そのまま波間に没した。
翌朝クヌッセンは、エレン・マースク号の救命艇とともに、
和歌山県日高町田杭地区(日ノ御埼の北側にあたる)の浜に
遺体となって打ち上げられた(39歳没)。
この海難事故では、高砂丸の船員3名全員とクヌッセンの4名が犠牲となった。
(Wikipediaより)


石碑が在りました。
日本の船員を救おうとして殉難したクヌッセンの行動は、当時の日本で大きな話題となり、
日本政府は勲五等双光旭日章を贈った。
事故の翌1958年には、事故現場を望む紀伊日ノ御埼灯台付近の日の岬パーク(美浜町)内に
「クヌッセン機関長顕彰碑」が建てられた。
また、1962年には関西デンマーク協会の呼びかけによる義捐金で胸像が建てられている。
顕彰碑・胸像のある一角は、「クヌッセンの丘」と呼ばれている。
毎年2月には、地元のヨハネス・クヌッセン遺徳顕彰会による慰霊献花式が行われている。

(Wikipediaより)

遺体が打ち上げられた日高町阿尾田杭には「クヌッセン機関長遺骸発見の地」と
記された供養塔が建てられ、その傍らの保管庫には救命艇が保存されて、
地区の人々によって守られてきた。
2012年には県道拡幅工事に伴い、保管庫を新築移転している。
(Wikipediaより)

※望遠鏡COVAC

展望台などに設置される観光望遠鏡を設計・製造している。
また、映画のセットに用いられるからくり装置や遊園地のアトラクション、
科学展示装置などの設計・製造の受託も行っている。
不山科区京都の会社なんですね。
(BaseconnectLISTより)


和歌山県では、クヌッセンの勇敢な行動と無私の人類愛を讃える歌が2つ作られ、
郷土史の副読本等で語られるなど知名度が高い。
2002年、サッカー・ワールドカップの日韓共催大会では、
デンマーク代表が和歌山市でキャンプを行ったこともあり、クヌッセンの縁が想起された。
高砂丸の母港だった徳島県海南町浅川(現:海陽町)でも、1959年に海南町が頌徳碑を建立している。
現在浅川漁村センターにあるこの碑は、地元の浅川小学校(2011年閉校)の児童によって
清掃と献花が行われていた。

(Wikipediaより)



2015年に閉館した日の岬国民宿舎

※ますます霧が〜

紀伊日ノ御埼灯台(きいひのみさきとうだい)は、和歌山県日高郡日高町、
紀伊半島の日ノ御埼突端に立つ白亜塔形の大型灯台。
周辺は、煙樹海岸県立自然公園に指定され、紀伊水道を望む風光明媚の地となっている。

日高郡美浜町内に建っていたが、付近で地割れが進行し滑落のおそれがあることから、
2017年3月に地盤が安定している約120m西の日高町内に建て替えられた。
移転の総事業費は約1億6,000万円。

※領海及び接続水域に関する法律等では本灯台と
徳島県阿南市の蒲生田岬灯台を結んだラインまでが瀬戸内海と定義されている。





風光明媚な〜
四国は見えんがな…



幽かに海岸線が〜



防衛庁境界石

※100m先も見えない〜

アキマセンネ

※大賀ハス池
海浜テント村
日の岬キャンプ場入口

大賀ハス(オオガハス、おおがはす)は、1951年(昭和26年)、
千葉県千葉市検見川(現・千葉市花見川区朝日ケ丘町)にある
東京大学検見川厚生農場(現・東京大学検見川総合運動場)の
落合遺跡で発掘された、今から2000年以上前の古代のハスの実から
発芽・開花したハス(古代ハス)のこと。
(Wikipediaより)


岬を恨めし気に振り返りながら〜

※海岸の自然石に歌碑

風早の 三保の浦みを 漕ぐ舟の 舟人騒ぐ  波立つらしも  万葉集巻7

※昭和45年7月建立

京都大学名誉教授
澤瀉 久孝(おもだか ひさたか、
1890年(明治23年)7月12日 - 1968年(昭和43年)10月14日)は、日本の国文学者、万葉学者。文学博士。
1890年(明治23年)、三重県度会郡宇治山田町(現在の三重県伊勢市)に生まれる。
三重県立第四中学校・第三高等学校を経て、1915年(大正4年)に京都帝国大学文科大学文学科国文学専攻卒業。
第五高等学校教授を経て、1922年(大正11年)京都帝国大学文学部助教授、1936年(昭和11年)に同教授に就任。
その前年に文学博士の学位を授与されている。学位論文の題は 「上代歌謡ノ作者及ビ時代考」。
1951年(昭和26年)、京都大学教授を辞職し、京都大学名誉教授となる。
退職後は関西大学・ノートルダム清心女子大学・皇學館大学で教鞭をとる。
1968年、萬葉学会の全国大会のために静岡に滞在中、当地にて心不全のため死去。享年78。
研究人生を『万葉集』一筋に費やした万葉集研究の大家で、特に訓詁の重要性を説いた。
昭和26年、萬葉学会が設立された際、その代表者に推された。
また、彼の代表著書のひとつである『万葉集注釈』の完成に対し、1967年(昭和42年)に第37回朝日賞が贈られた。

(Wikipediaより)

※県立自然公園なんですね。

防波堤の背の高い
三尾の漁港
前には

※左へ〜
平成28年4月14日に九州では大震災(震度7)が熊本に…
平成28年10月21日には鳥取県中部地震(震度6弱)が〜
東日本大震災は7年目に…台風・豪雨水害被害で被災された方々に、
お見舞い申し上げます。阪神大震災も23年…今年こそエエ年に!
北大阪大震災・豪雨被害
灼熱の夏も過ぎに春のポタ(UP遅!)
連続的な台風20〜25号被害に胸が痛みます。
えっ?皆様方、急遽過ぎと体調不良に家事・仕事にて
お休み〜残念!
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