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紅葉の季節、西国街道の要所だった
大阪北部の高槻へ!
大楠公の夢の跡〜

高槻(大塚切れ碑)25

だからいつもの神社と路地・旧村探し〜
「鶯の啼くや鵜殿の河柳」蕪村。。。
相棒自転車は久々のUFO先生T号とブロ君達!
今年の目標はフルサイズ!

※マウスポインターを置いてください。 
                                           撮影:平成29年11月04日
                                           UP日:平成30年04月03日

此処からソロです〜

※JR跨線橋渡って〜
大阪側

京都側



高槻の城下町に入る六口のひとつで、
京口と呼ばれた高槻城から西国街道まで続いた松の並木道。
慶安2年(1649年)に、高槻城主・永井直清によって整備され、
現在の八丁畷町・松原町に名残をとどめる。
(高槻市HPより)


※赤松の並木

横目に〜

※枚方大橋から来た道を帰ります〜

付録です
 『災害は忘れたころに
やってくる。』
よく釣りに行っていた都島区の銀橋近くに
水防の碑が有りました〜



 琵琶湖を源とする宇治川と、桂川と木津川をあわせ大阪湾に注ぐ淀川。
普段は、高槻市の南辺に沿って穏やかに流れ、沿岸の田畑を潤し、
また私たちに貴重な水をもたらしてくれる淀川ですが、
時として大自然ゆえの猛威をふるうことがあります。
大正6年(1917)10月1日午前8時40分、大塚の堤防が台風による連日の大雨により決壊し、
高槻町(現在の高槻市)に甚大な被害をもたらしました。
これが世に言う「大塚切れ」です。
台風がもたらした大量の雨により淀川本流、支流ともに水位が上昇し、
1日早朝には番田の芥川堤防が決壊、ほぼ同時に芝生の堤防が290mにわたって決壊しました。
さらに、大塚の淀川本流の右岸堤防が大音響を響かせながら、
長さ約470mにわたって崩壊しました。
堤防の決壊によって、まちに流れ出た濁流は渦を巻き、
波打って怒涛のごとく流れ込み、大塚堤防辺りの家並み数戸がアッという間に押し流され、
午後2時頃には天神山の山際あたりまで浸水し、さらには
安満・野田にも及んだことが記録に残っています。
(高槻市HPより)


※亡き父からは
昔、『ワザと切れ』なんて
聞いたことが有ります。

 大阪尻無川石匠 亀田



 スーパー堤防ですと…

 大正6年9月末の豪雨により淀川右岸三島郡大冠村(現在の高槻市)大塚の
堤防が二百メートルにわたり決壊しました。
この洪水の決壊個所から「大塚切れ」と呼ばれました。
三島郡の大半を沈め当時西成郡であった現在の東淀川区、淀川区、西淀川区一帯は
泥海と化し、十三付近で浸水八尺(約2.4メートル)に達しました。
この洪水による浸水町村数 三十一、罹災戸数一万五千四百九十七戸、
罹災人口四万六千四百九十一人に達しました。
当時の福村では、十月一日夕刻、村民に対して避難するよう通告されました。
そして三日昼過ぎ、さらに濁流が押し寄せました。
そして十月中旬ようやく淀川の水位が下がりはじめました。
浸水各村内の水位の方が淀川より高いので、
今の国道43号より上流約二百メートルの個所で淀川の堤防を
切開して停滞していた湛水を淀川へ流し出しました。
福村で地面を見ることができるようになったのは、
ほぼ一ヶ月後の十一月五日でした。
現在、湛水を流し出すために堤防を切開した地点の
右岸堤防に大塚切洪水碑が建てられています。
(西淀川区HPより)
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えっ?皆様方、急遽過ぎと体調不良に家事・仕事にて
お休み〜残念!
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