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紅葉の季節、西国街道の要所だった
大阪北部の高槻へ!
高山右近の夢の跡〜

野見町(野見神社) 03


だからいつもの神社と路地・旧村探し〜
「鶯の啼くや鵜殿の河柳」蕪村。。。
相棒自転車は久々のUFO先生T号とブロ君達!
今年の目標はフルサイズ!

※マウスポインターを置いてください。 
                                           撮影:平成29年11月04日
                                           UP日:平成30年03月29日

城跡は後ほどで
野見神社サンにお参りします。

宇多天皇の頃に、当地で流行した疫病を防ぐため、
「牛頭天王(須佐之男命)を祀れば悪病が治まる」
というご神託により創建。江戸期までは「牛頭天王社」と称した。
明治期に野見宿禰命を合祀して、「野見神社」と改称している。
(高槻市HPより)


※永井神社

社務所前の参道の先に
拝殿が有ります。

※永井先公遺愛碑

落葉を地元の方が
掃き清められてました。

拝殿舎正面から〜

※扁額

少し寄り目な狛犬


※吽




手水鉢に遥拝所

※四柱明神サン

眷属サンも〜


※吽

磐神社、祖霊社

境内摂社も沢山〜

※この建物は?

永井 直清(ながい なおきよ)は、江戸時代初期の大名。
山城長岡藩主、のち摂津高槻藩の初代藩主。
天正19年(1591年)5月、永井直勝の次男として相模で生まれる。
徳川秀忠に仕えて御小姓、御書院番となり、慶長19年(1614年)からの
大坂の陣にも参加し、同年に530石の知行を与えられている。
寛永9年(1632年)11月18日、日向守に叙任。
数度の加増を経て寛永10年(1633年)3月25日、2万石を与えられて
山城勝竜寺城に入城し長岡藩主となる。慶安2年(1649年)7月4日には
1万6,000石を加増されて合計3万6,000石の大名となる。
このとき、領地も長岡から摂津高槻に加増移封された。
兄の尚政と同様に有能かつ京都周辺の領地を支配したため、
京都所司代代理・大坂城代代理を歴任し、禁裏造営の奉行や
大坂城普請を務めるなど、幕府からの信任は厚かった。藩政においても、
城下町の整備や拡大、治水工事に努めて実高6,000石を
増加させるなど、藩政の基礎を固めた。
(Wikipediaより)
 

※唐門の綺麗な彫刻
造立から約160年、屋根や柱回りの傷みがみられるようになったため、
高槻市の文化財補助事業として野見神社による保存修理が行なわれました。
平成22年度の修理では、唐門の小屋組補修と屋根葺替、
透塀の解体補修が行なわれ、基礎部分などの構造補強も施されました。
江戸時代に創建された当時のままに、巧みな彫刻と精細な飾り金具で
飾られた優美な姿が復元されました。
(高槻市HPより)


本殿舎裏から〜

※そうか〜
七五三

破風の彫り物も見事に〜

前には
権次一統の彫物は、躍動する竜に代表される。その特徴は
3本のがっちりしたかぎ爪で丸い宝珠を掴んでいる。
口を開けた時の舌がぐっと立ち上がっている。
目尻が赤く塗られたものが多い。
銅を用いた髭が螺旋状に巻き上がっている。
−など。また木鼻(長い梁の両脇先端部)に唐獅子、獏、象などの霊獣を並べ、
そのほか周りに麒麟、十二支の動物、牡丹、謡曲や
中国の神仙説話などの登場人物、動物などが多彩にちりばめられている。
(Wikipediaより)

似てるような似てないような〜

三本爪に玉は〜
持っていない。。。

※木鼻は獅子

高槻戎神社サン

※高槻村銘手水鉢

並びに〜
キリスト教会高槻教会



 磔像の全身春の光あり   
阿波野青畝 句


天正15年(1587年)の秀吉によるバテレン追放令、
慶長18年(1613年)の徳川幕府によるキリスト教の禁教令など、
周囲からのキリスト教弾圧に右近が屈することはありませんでした。
大名の地位を捨ててまで貫いた信仰は人々の胸を打ち、
教皇シスト5世からは右近を称えた書簡も送られています。
追放令後、右近は加賀の前田利家に迎えられ、金沢に屋敷を構えました。
しかし、禁教令が発令されると、右近は国外追放となり、
長崎からマニラ市へと旅立ちます。
無事到着はしたものの、間もなく病によって最期を迎えました。
慶長20年(1615年)のことでした。
(高槻市HPより)





カトリック本山、バチカン市国のクラレチアン総長(当時)から
贈呈されたイタリア産大理石でできた高山右近像があります。
(高槻市HPより)




台座に書かれています。

※藤井竹外邸跡碑
藤井 竹外(ふじい ちくがい)
文化4年4月20日(1807年5月27日) - 慶応2年7月21日(1866年8月30日)は、
幕末の漢詩人。名は啓、字は士開、強哉。通称は啓治郎、吉郎。
竹外、また雨香仙史、酔士とも号す。子の貞臣(又一)は槍の名人として知られる。
摂津高槻藩の武士の家に生まれる。
詩を頼山陽に学び、七言絶句を得意とすることから「絶句竹外」と称される。
梁川星巌、広瀬淡窓らとも親交があった。詩集に『竹外二十八字詩』など。
武士としては鉄砲の名手であったというが、
晩年は京都に隠居し、詩酒に耽る生活を送る。
唐の元?の「行宮」を換骨奪胎した代表作「芳野懐古」は、
芳野三絶の一つに数えられる。

(Wikipediaより)

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