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自動車で移動して… 小富士(231m)周りへ〜 登りませんよ! ※梶原集落から少し離れて 鴨神社が有ります。 右の森 |
神社正面 ※手水舎 |
何度見ても〜 絵に成ります。 |
スッキリとした線を出しています。 狛犬 阿 ※吽 |
文久期の狛犬 尻尾は、なにわ型 ※ |
随身門潜って〜 中の拝殿は広いです。 ※摂社も〜 |
飾り瓦の 社紋はフタバアオイ ハート添え ※拝殿舎正面 |
立派な龍が彫られてます。 中井権次一統作でしょうね。 ※春日神社・加茂皇大神・八幡神社・貴船神社 の扁額 |
拝殿舎内部に〜 神宮皇后? 篠山市の今田地区には、住吉神社が村ごとに鎮座している。 これは、今田地区がかつて摂津住吉大社の 荘園「小野原荘」であったことによる。 鎌倉時代の文保年間(1317〜19)に、小野原荘の氏神として 住吉大社の分霊が小野原の地に勧請、創建された。 それが、のちに黒石・本荘などに分祀されたことで 住吉神社が おおいに広まったのである。 住吉神社が今田と境を接する播磨・摂津にも多く鎮座しているのは、 丹波西部から東播磨・北摂津一帯が椅鹿杣山として 住吉神社の領有するところであった 歴史を伝えたものであろう。 (篠山の歴史・見処を訪ねるHPより) へぇ〜川舟運輸送の守り神かと思ってました。 |
見事な鶴の絵馬 ※何方?? |
桃園義盟図(長澤蘆州) 円山応挙の高弟で蘆雪の義子) ※ 絵馬 |
水辺に矢を立てて〜 何方?? ※何?? |
蒙古襲来?? ※線描きの馬ですね〜 |
拝殿舎前 ※赤い鳥居 稲荷社 |
猿田彦神社(庚申様) ※430年位の杉の巨木が有ったそうで〜 織田信長の丹波攻めの直後に植えられたとか。。 |
この幹がそうですか〜 ※伊勢神宮・山陵・橿原神宮・明治神宮 遥拝所 |
自然石使った石燈籠 ※浄階(じょうかい)一級宮司 村岡元治翁頌徳碑 階位の最高位で、長年神道の研究に貢献した者に与えられる名誉階位。 神社本庁では、「神職身分に関する規程」により、 特級、一級、二級上、二級、三級、四級という身分の区分がある。 身分の選考は経歴・神社界に対する功績をもとに行われる。 神社本庁統理、神宮大宮司は特級、神宮少宮司は一級、神宮禰宜、別表神社の宮司は 二級上または二級という基準があるが、 昇級は基本的に各都道府県神社庁支部への貢献度、神職としての評価、実績による。 推薦は支部毎となるため、神職の少ない支部に於いては多い支部と比べ 昇級が早まる傾向にある。 (Wikipediaより) |
まださんが気に成る 厳島神社サン ※拝殿舎にオープンテラスが… ゆっくりお茶を飲みたいなぁ〜 |
土俵ですかね? ※下鴨神社との間の摂社 |
下鴨神社サン ※厄神神社サン |
豊受神社サン 『古事記』では伊弉冉尊(いざなみ)の尿から生まれた稚産霊(わくむすび)の子とし、 天孫降臨の後、外宮の度相(わたらい)に鎮座したと記されている。 神名の「ウケ」は食物のことで、食物・穀物を司る女神である。 後に、他の食物神の大気都比売(おほげつひめ)・保食神(うけもち)などと同様に、 稲荷神(倉稲魂命)(うかのみたま)と習合し、同一視されるようになった。 伊勢神宮外宮の社伝(『止由気宮儀式帳』)では、雄略天皇の夢枕に天照大神が現れ、 「自分一人では食事が安らかにできないので、 丹波国の比沼真奈井(ひぬまのまない)にいる御饌の神、 等由気大神(とようけのおおかみ)を近くに呼び寄せなさい」と言われたので、 丹波国から伊勢国の度会に遷宮させたとされている。 即ち、元々は丹波の神ということになる。 (Wikipediaより) ※酪農場〜 |
粟島神社サン (淡島神を祀っているとか) ※豊受神社 狛犬の尻尾 |
豊受神社正面 ※ |
由緒も〜 江戸期には鴨郷(加茂之庄)九村の総社だった。 ※アンチョコです。 |
お百度石 ※郷社 鴨神社 |
梶原集落の一の鳥居 ※向こうの森が鴨神社 |
大きな扁額が付いた 四つ脚鳥居 (大正期の中井権次彫刻) ※ |
御神木 天然記念物・大銀杏 ※ |
古く平安の時代から 乳の木として近郷近在の住民から崇敬されてきた。 樹医の山野忠彦氏の蘇生治療により蘇ったと〜 山野忠彦(やまの ただひこ、1900年6月25日 - 1998年9月25日)は、日本の樹医。 日本で初めて自らを樹医と名乗り、各地の巨木・名木を枯死から救った。 大阪府の油問屋の息子として生まれたが、母は産後の肥立ちが悪く生後すぐにこの世を去った。 幼くして実業家、山野丑松の養子になり、3歳のときに韓国の京城(現 ソウル特別市)に移住。 朝鮮全土にガソリンを販売する石油代理店として財を成した。 中央大学で学ぶため日本に帰ったが、勉強はせず芸者遊びに明け暮れ中退。 1926年、忠彦26歳のときに丑松が死去。 忠彦は義父の遺した莫大な財産を使い果たそうと考え、 事業は継がず人夫を30人したがえて朝鮮各地の山にのぼった。 5年で財産はなくなった。 しかし中国人の勧めで不動産屋をはじめ、 友人から借金して買った土地が数ヶ月で4倍の値になった。 この事業でまた資産家になった。 裕福になると不動産屋をやめ、 ソウルの郊外に50万坪の村をつくり地主兼村長になった。 集中豪雨の多発する地帯だったため植林をはじめ、 一度は失敗したが数年後に1000本の桜を植えることに成功した。 この経験から樹木との関わりができた。 しかし、太平洋戦争での敗戦後当時20億円あった朝鮮の資産は全て放棄させられ、 大阪の焼け野原に引き揚げてきた。 大阪では進駐軍から「日本の山にある鉱石の分布を調べてほしい」と依頼された。 調査で山を巡ると、荒れ果てた姿に心を痛めた。 1948年に調査を終えると、家族に樹医になる決意を伝えた。48歳であった。 それから昼は研究、夜は仕事という生活が始まった。 1964年に治療の実験のため大阪市公園課の臨時職員になった。 その五年後、木の治療のため全国行脚をはじめる。 治療した樹木の数は1988年に1000本に達した。 (Wikipediaより) ※JR市島駅の方向 |
友政方面 ※いつまでも残ってくださいませ。 |
平成28年4月14日に九州では大震災(震度7)が熊本に…
平成28年10月21日には鳥取県中部地震(震度6弱)が〜 東日本大震災は6年目に…台風・豪雨水害被害で被災された方々に、 お見舞い申し上げます。阪神大震災も22年…今年こそエエ年に! マー君、お江戸へ長期貸出中。
えっ?皆様方、急遽過ぎと体調不良に家事・仕事にて お休み〜残念! |
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