基本的には下りは大好きですが
小径車には大敵で〜
前転なんてのも考えられるんで…
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出会う人は無かったんですが〜
※庭先で野菜なども
売っていたんでしょうね〜
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往時の人の面影を思いながら〜
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やまと橘を植えよう〜
非時香果(トキジクノカグノコノミ)
不老長寿の薬効が有ったとか…
苗を戴いたら植えますよ!
※橘より柿の木を横目で〜
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山の辺の道の名の通り〜
※遠く大和平野が〜
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休憩所も
こちら側には整備され〜
※藤の花の季節
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ニ太陵に一人の衛士やほととぎす
崇神、景行天皇陵を一人の衛士が行き来して守った?
※大和の集落
青垣山(外輪山)に囲まれた大和の田園風景〜
奈良時代の条里制
条里制(じょうりせい)は、日本において、
古代から中世後期にかけて行われた土地区画(管理)制度である。
ある範囲の土地を約109m間隔で直角に交わる平行線(方格線)により
正方形に区分するという特徴がある。
里の横列を「条(じょう)」、里の縦列を「里(り)」とし
、任意に設定された基点から、
縦方向には一条、二条、三条と、横方向には一里、二里、三里というように、
明快な位置表示が可能となっていた。
(Wikipediaより)
小学生以来ですわ〜
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一服して〜
※大和盆地が望めます
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石畳の小道を〜
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階段も…
※自動車の入れる場所も〜
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玉かぎる 夕さり来れば 猟人の 弓月が岳に 霞たなびく
柿本人麻呂
万葉歌碑
※右が櫛山古墳
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奈良盆地東縁において、丘陵先端部を切断して築造された巨大前方後円墳である。
江戸時代末期に柳本藩による修陵事業が実施され、周濠等に改変が加えられている。
現在は宮内庁治定の天皇陵として同庁の管理下にあるが、
これまでに1974-1975年(昭和49-50年)に宮内庁書陵部による
外堤・渡堤・後円部墳丘裾部での発掘調査が実施されているほか、
2017年(平成29年)に学会立ち入り調査が実施されている[5]。
墳形は前方後円形で、前方部を北西方に向ける[4]。墳丘は3段築成。
墳丘長は242メートルを測るが、これは全国では第16位、
柳本古墳群では渋谷向山古墳(天理市渋谷町、300メートル)に次ぐ第2位の規模になる。
墳丘表面では葺石・埴輪が検出されている[6]。墳丘周囲には盾形の周濠が巡らされており、
周濠を含めた全長は360メートルにも及ぶほか(ただし周濠の一部は後世の改変)、
陪塚的性格を持つ古墳数基の築造も認められる(5世紀代の陪塚とは性格は異なる)。
主体部の埋葬施設は、後円部における竪穴式石室と推定される。
出土遺物としては、円筒埴輪・土師器・須恵器(以上宮内庁書陵部の調査時)のほか、
江戸時代の修陵の際に出土した銅板1枚がある。
この行燈山古墳は、出土埴輪・出土銅板から古墳時代前期後半の4世紀前半頃の築造と推定される。
柳本古墳群では渋谷向山古墳に先行する時期の築造とされ、
渋谷向山古墳とともに初期ヤマト王権の大王墓と目される。
被葬者は明らかでないが、現在は宮内庁により第10代崇神天皇の陵に治定されている。
(Wikipediaより)
※鏡のような環濠
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カシやシイの花の甘い香りの中を〜
※藤の花も咲いてます。
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櫛山古墳は、猫塚のように、二つの方形突出部がほぼ均等な大きさでなく、
むしろ普通の前方後円部にもう一つの短い突出部を付けたような形状に変形している。
周濠を持っていない。しかし、周囲に周濠の区画が残り水田となっており、
当初の姿を残しているといえる。
周濠の範囲は東西190メートル、南北165メートルあって、
前方部側面での周濠幅は約56メートルあまりである。
墳丘長152メートル、中円部直径約90メートル、
前方部の長さおよび幅とも60メートル、後方部の長さ25メートル。
中円部の西側に前方部、東側に後方部を備えた双方中円墳である。
前方部と中円部の頂上は平坦で、3〜4センチの白い小石が埋葬施設周辺に
敷き詰められていたとおもわれる。
段築は中円部・後方部3段と前方部2段に築かれている。
30センチぐらいの大きさの板状の葺き石が墳丘全体に葺かれていたと見られている。
中円部はほぼ正円形、前方部は正方形で前面の広がりや正面の弧状がない。
後方部は短く、わずかに開いている。排水施設を備えていて、
長さ5メートル、幅3.4メートルの土壙も検出されている。
(Wikipediaより)
※櫛山古墳環濠脇を〜
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零れるようなツツジの花〜
※こんにゃくの花
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トタン被せの大和棟
※基本山の辺です〜
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