topページへ戻る コンテンツ メニューへ戻る 親爺紹介 リンクへ 一言BBSへ

新緑の奈良が好き!!
2017年GWはゲスト呼んでのトリオポタ、山辺の道〜。
古墳と環濠と街道〜信仰の里をブラリと!
色んな出会いが!

山の辺の道・和爾下神社(柿本寺) 05

今年のGWは五月晴れで〜
6輪ポタ…浮ドンもねずみ君も休みやし、T君来えへん?
私の誘いに、彼は軽い気持ちで…エエよと〜

先日の王寺は水運、今回は山裾を!
だからいつもの神社と路地探し。。。
相棒自転車は700Cランドナー+ブロ君+TOEIランドナー!
※マウスポインターを置いてください。 
                                           撮影:平成29年05月05日
                                           UP日:平成29年05月19日

R169沿いの和爾下神社鳥居
前には〜西方向のもう一社に参っています。
左 なら道
道標〜

※是より半丁うち柿本寺 
人丸神像●寳物あり

本殿国宝 和爾下神社
鳥居潜った参道なんですが
地元の車の抜け道に成っているようで
案外、通行量が多かったです〜
青銅製狛犬


※吽

神武天皇遥拝所
橿原向いています。

※これは手水鉢

ん?杯状穴ですね〜

※深い!
T君に言わせたらカップホルダーとか
この表現、まだサン大いに気に入る。。

 さす鍋に 湯沸かせ子供
櫟津の 檜橋より来む
狐に浴むさむ
長忌寸意吉麿が歌八首
万葉歌碑

 
国道に背を向けて〜

※石燈籠
発起人

石製梯子付石燈籠

※大正10年銘の青銅製狛犬
戦中の供出は無かったの?

 大坂新世界
奥本楢治郎銘

※櫟本町
石工 畑市松銘

末社



稲荷社



アニメ顔〜
眷属さん


※吽

稲荷社の玉垣

※向かいに
古墳?

奮闘碑?

※忠魂碑


陸軍大臣
荒木貞夫 銘
荒木 貞夫(あらき さだお、1877年(明治10年)5月26日 - 1966年(昭和41年)11月2日)は、
日本の陸軍軍人、第1次近衛内閣・平沼内閣の文部大臣、男爵。最終階級は陸軍大将。
真崎甚三郎と共に皇道派の重鎮であり、昭和初期の血気盛んな青年将校のカリスマ的存在であった。
1933年(昭和8年)、大阪でゴーストップ事件が発生。陸相であった荒木は
「陸軍の名誉にかけて大阪府警察部を謝らせる」と憤慨し、内務省と対立した。
1936年(昭和11年)の二・二六事件の際には、皇道派の首領として青年将校達を裏で支えていたのでは、
という疑惑が持ち上がったが、軍の主要人物の中では、一番明確に反乱将校に原隊復帰を呼びかけていた。
しかし、荒木はこの事件後の粛軍によって予備役に退かされ、軍人としての第一線からは消えていった。
1966年(昭和41年)10月末、奈良県吉野郡十津川村の招待で同村を訪問し、
同村ゆかりの天誅組・十津川郷士関係の諸史料の調査と講演を行ったが、
同年11月1日、宿泊先の「十津川荘」において心臓発作を起こす。
当時の佐藤栄作首相へ「日本の未来像は、維新の五箇条の御誓文を主とし、
つまらぬ事を付け加えずに、これを達成すること」といった遺言を口述し、翌日死去した。
(wikipediaより)

※昭和9年銘


故 陸軍歩兵1等卒勲八等功七級
八木元治郎之碑

※明治三九年銘
日露戦争ですね。

碑だから墓標ではない?

※火袋が無い石燈籠

寄せ集められたような〜失礼!

※明治33年銘
延喜式内
和爾下碑

明治天皇遥拝所
京都伏見方向
前に

※東西に〜
参道風景

大日如来碑
お堂か祠が有ったんでしょうか?

※地元の方は抜け道ですし〜

参道燈籠〜

※天満宮銘
天神は元来
カミナリ(神鳴)で、稲の妻(イナズマ)として
稲作に豊穣をもたらす神と聞いたことが〜


小さな祠と
笠のない燈籠と
参道燈籠

※途中から北方向に〜

公園脇に
柿本寺跡
→50m

※和爾下神社古墳

参道脇の手水鉢

※参道風景〜

影姫あわれ
石上(いすのかみ)布留(ふる)を過ぎて 薦枕(こもまくら)高橋過ぎ 
物多(ものさわ)に 大宅(おおやけ)過ぎ 春日(はるひ)春日を過ぎ 
妻隠(こも)る 小佐保(おさほ)を過ぎ 玉笥(たまけ)には 
飯(いい)さえ盛り 玉もひに 水さへ盛り 泣きそぼち行くも 影媛あわれ


山の辺の道北ルートで布留から奈良(春日)まで夫の弔いをしに行った

(中略)
当時は山の辺の道と都祁山道との交差点で
政治・経済・文化の要衝であった。


鳥居

※見返って〜

参道石段

和爾下神社本殿
本殿 重要文化財
櫟本の町中を流れている高瀬川に沿った長い参道があって、
東の治道山に鎮座、寿永2年(1183)藤原清輔の弟顕昭(けんしょう)が著わした
『柿本朝臣勘文』によると、「清輔が語っていうに、大和国へ下向した時、
古老から聞いたが、添上郡石上村の傍らに社があり、春道社という。
その中に寺があって柿本寺といい、人丸の堂である。
その前の田の中に小塚があって人丸墓という」意味の記事があり、
この記事により石上村の付近に治道の森があり、治道社(春道社)と柿本寺があったことがわかる。
『東大寺要録』には、「神護景雲3年(769)東大寺領の櫟庄に水を引くために、
高瀬川の水路を今の参道に沿った線に移し、道も新しく、まっすぐに造られた。
この社は東大寺山丘陵の西に位置する古墳の上に祀られていて
櫟本地方にいた豪族の氏神であったが、今は櫟本の鎮守である。
御祭神は素盞鳴命(すさのおのみこと)を祀っているので
牛頭天王社ともいわれ、ここに建てられた柿本寺との関係で
柿本上宮ともいわれた。
明治初年に延喜式内の和爾下神社に当ると考証されて社名を
和爾下神社と定められた。
今の本殿は、桁行三間、梁間二間、一重、切妻造、向拝一間、
檜皮葺、桃山時代の様式をそなえ、古建築として昭和13年国宝に指定、
現在重要文化財に指定されている。
例祭は7月14日(祇園さん)と10月14日の2回である。
(天理市HPより)




1対の撫牛


※左

立派な拝殿舎
拝殿舎前には狛犬の代わりに
撫牛

※脇の若宮社前
狛犬

休憩中〜



手水鉢

※狛犬代り?

治道宮石燈籠



別の参道脇の
社務所前の手水鉢
こちらにも
治道宮石燈籠

※ こちらが本道?
狛犬付石段
 
狛犬

(顎が歪んでいませんか?)

※吽
 



境内風景

※拝殿舎
国宝の本殿舎は見えない〜
木鼻に象・蛙股に龍

パンフレット?

本殿舎前の狛犬


※吽

若宮社前の狛犬


※吽
(どちらも阿?)

境内は鎮守の森に囲まれて〜

※若葉の季節ですが〜

歌塚
治道山柿本寺は、治道の森のほとりにあって柿本氏の氏寺であった。
ここに柿本氏の出である歌聖柿本人麿の遺骨を葬ったので、
人麿崇敬が盛んになるにつれ、歌塚として有名となった。
『藤原清輔家集』に「大和国石上柿本寺という所の前に人磨呂の塚ありと
聞きて卒都婆(そとば)に柿本人丸の塚としるしつけて傍にこの歌をなん書けり
世を経てもあふべかりける契こそ苔の下にもくちせざりけれ」
柿本寺は出土の古瓦から奈良時代に創建されたと考えられる。
建武4年(1337)北朝軍が天王社(治道社)や柿本寺に陣取って
南朝軍と戦った記事があるが、その前後に描かれた柿本宮曼茶羅(まんだら)
(現在奈良市学園前町大和文華館が所蔵、重要文化財)がある。いつの頃からか、
ここから西約400メートルの天理市立櫟本小学校の西側へ移った。
ここへ移った時代は不明であるが、室町時代には現在の地にあったようで、
江戸時代にかけては代々学僧が出て和歌や茶の湯などに親しんだが、明治初年に廃寺となった。
しかし、享保17年(1732)柿本寺の僧や森本宗範によって
建てられた歌塚の碑によって今もなお昔を偲ぶことができる。
(天理市HPより)



 
みのむしの子ハ
ここと鳴く
歌聖の碑


※蛙に不動尊像

蛙の親子も〜
何やろか?



歌聖柿本人麿像



不動尊
地蔵尊
廃仏毀釈は無茶したんですね〜
隣りの国の文化大革命みたいに…

※参道上れば〜
エエ感じに朽ちかけてる
カブトムシ

先はシャープの工場

※ここまで参道〜
平成28年4月14日に九州では大震災(震度7)が熊本に…
平成28年10月21日には鳥取県中部地震(震度6弱)が〜
東日本大震災は6年目に…台風・豪雨水害被害で被災された方々に、
お見舞い申し上げます。阪神大震災も22年…今年こそエエ年に!
マー君、お江戸へ長期貸出中。
えっ?皆様方、体調不良に家事・仕事にて
お休み〜残念!
ページトップに戻る

01 02 03 04 05 06 07
08 09 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 32 33 34

怪しい親爺のポタメニューに戻る
Copyright c 2003 Office Young Moon. All Rights Reserved.