多聞橋北詰
元は木橋→石橋→コンクリート潜水橋
→現在の鋼製とか…
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多聞地蔵尊
古来信貴山への参拝者が多かったと…
※多聞橋の袂に…
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何で多聞の名が付いたんでしょうか?
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シンプルな造作
※ベンチの石材は昔の石橋材とか〜
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地元の方々と
多くの旅人に信仰されたんでしょうね〜
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JR関西本線
柏原から三郷にかけては、北側の山道越え(信貴山越と一部重なる)、
大和川の北岸に沿うルート(いわゆる亀の瀬越)、
対岸の南側を沿うルート(現在の国道25号)など、複数のルートがある。
柏原市内で、「亀の瀬」とよばれる地域を通るが、
本街道としては現在に至るまで、難所として知られた。
明治時代以降に鉄道が敷設されたときに長大トンネルが掘られたが、
軟弱地盤のため、崩壊して放棄された。
(Wikipediaより)
※延命地蔵尊
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大和川沿いの公園遊具
※津波のような住宅地風景〜
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地蔵尊の多い通りです。
ホルモン煮コゴリあります〜
今度買いましょう!
※JR関西本線からも見える大きな伽藍
稱名寺さん
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先の橋も明治期からあります。
※信貴山の麓
三郷町(旧立野村)
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大和川には、主に大和の農民が田畑に使う肥料を
大坂から運んでくる川船が就航していました。
大坂から剣先船(けんさきぶね)で運ばれてきた荷物は、
亀の瀬の滝のところで魚梁船に積み替えられました。
魚梁船(やなぶね)は立野村(現、三郷町)の安村喜右衛門が支配し、
筒井や今里、松本、河合などまで荷物を運んでいました。
(王寺町歴史資料室HPより)
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いつ頃の建物でしょうか?
繁栄の証
※鏡遊び
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水嵩が上がっても安心な位置
※にゃんこも出迎えてくれました。
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立野簡易郵便局の向こうに
浴場もみじ湯
※マッテヤ〜!
そっちと違うで!!
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松永 久秀(まつなが ひさひで)は、戦国時代の武将。
大和国の戦国大名。官位を合わせた松永弾正(まつなが だんじょう)の名で知られる。
弟に長頼、嫡男に久通、養子に永種(貞徳の父)。
初めは三好長慶に仕えたが、やがて三好政権内で実力をつけ、室町幕府との折衝などで活躍した。
久秀は長慶の配下であると同時に交渉の一環として室町幕府第13代将軍・足利義輝の傍で
活動することも多く、その立場は非常に複雑なものであった。
また、長慶の長男・三好義興と共に政治活動に従事し、同時に官位を授けられるなど
主君の嫡男と同格の扱いを受けるほどの地位を得ていた。
長慶の死後は三好三人衆と時には協力し時には争うなど離合集散を繰り返し、
畿内の混乱する情勢の中心人物の一人となった。
織田信長が義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛してくると、一度は降伏してその家臣となる。
その後、信長に反逆して敗れ、信貴山城で切腹もしくは焼死により自害した。
茶人として高名であり、茶道具と共に爆死するなどの創作も知られている。
(Wikipediaより)
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兵火をくぐり抜けた五輪の石塔を
此の地に運び組み立てたとか…
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戻ってきました〜
※此処にも地蔵尊
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あの森まで〜
※浴場もみじ湯さん脇から〜
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キョロキョロしながら〜
※ゆっくり上ります〜
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立派な祠も〜
※にゃんこが
屋根で、お出迎え〜
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