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明治期の地形図では瓦斯会社 だった横を抜け〜 ※ |
お地蔵様? と思えば… ※水天宮神社址碑 石銭場跡碑 |
石銭(こくせん)は、江戸時代に、港に入津する船の積荷の石高に応じて徴収した金である。 石銭という呼称は、『堺市史』によれば、 「船舶及び諸問屋の貨物取扱の石数に応じて入港料を徴収し、之を港湾浚渫費に充てた」 ためと記されている。 堺では延宝8年(1680年)から、水野元重が堺奉行であった時に始められた。 積荷100石につき60銭、廻船は100石につき年に銀10匁ずつ課せられ、 これらは湊の浚渫費や石堤・石垣の入用などに充てられた。 正徳元年(1711年)4月から廻船1石につき3銭、諸問屋売高1石につき3銭となった。 戎島に石銭勘定場が設けられ、享保8年(1723年)の徴収高は銀34貫800匁だった。 (Wikipediaより) 【所在】無格社水天宮はもと吾妻橋通四丁にあつたが、明治二十八年六月方違~社に合祀移轉した。 【沿革】同社は安政六年北灣戸北邊に創立せられ、以來永世講を組んで維持したが、 (松原武次カゥ事成就扣)明治二十八年税所篤三氏北波止に鐵工場を營まんとして 境内を其敷地に充て、方違~社へ合祀するに至つたのである (猶篤三氏の企劃した鐵工場は實現せられなかつた。~山鈴吉氏談) 【舊址】當社鎭座の舊址は東南隅は同丁二十三番地永來安次カ氏住宅、 西南隅は南海鐵道株式會社堺發電所木柵の東端、東北隅は同丁七番地田中信一氏住宅、 西北隅は前記發電所の一部に當るといふ。(高橋熊次氏談) 本殿は舊址中央北端に南面し、其南に拜殿があつた。(方違~社書?綴) 又舊址中央西寄に徑十尺位の小丘があつて榎の古木があり、小丘の前方に井戸があつた。 此井戸は水道設備の不完全な頃には港内に碇舶したゥ船舶の給水井として船乘業者より珍重がられた。(高橋熊次氏談) 【合祀當時の?態】又合祀當時には境内五百二十五坪六合、桁行一間、梁行五尺の本殿と桁行四間、梁行二間半の拜殿とがあつた。 (社寺明細帳) (堺市立中央図書館/堺市史より) |
昔は戎島へ行く人馬や 『異人さん』の往来〜 物流、文化や知識の玄関口だったんでしょうね。 ※ |
ここが本当の地蔵堂 ※脇には石臼?燈籠か狛犬の台座?? |
龍女神像の裏側に〜 ※吉川俵右衛門(1730年〜1810年) (『堺市史』第三巻より) 吉川俵右衛門(よしかわひょうえもん)は、宝永元年(1704年)の大和川の付替え以来、 土砂がたまり、船の出入りに支障をきたしていた堺港の修築に功績のあった人物です。 俵右衛門は、江戸浅草の商人でしたが、商用で訪れた港の様子に一念発起し、 堺商人の協力もとりつけて、寛政初年(1790年)頃に修築を開始します。 その後多くの困難を乗り越え、文化7年(1810年)までのおよそ20年がかりで工事は完成し、 現在の堺旧港の原型がこのときつくられました。 (看板より) |
明治33年(1900年)、俵右衛門の功績をたたえ、 堺港をみおろす北波止(きたはと)町に顕彰碑(けんしょうひ)が 有志の手により建設されました。 ※上記のようなことが記されているのでは〜 |
戎島から市街地を望む〜 ※雁木の様な護岸 |
天満宮御旅所 宿院には住吉神社御旅所 此処は大阪天満宮の? 菅原神社さんの御旅所は前に… ※ |
神輿台には天満宮銘 狛犬奉納者は唐物問屋銘 ※向こうに 煉瓦工場が見えます。 |
北波止緑地 大浜公園は明治12年(1879年)に開園し、堺市営で最も古い公園です。 (府営浜寺公園は明治6年(1873年)に開園)。 明治36年(1903年)には大阪で開かれた第5回内国勧業博覧会の会場となり、 世界に誇る東洋一の水族館と言われた堺水族館が設置されました。 その他にも公会堂、潮湯、海水浴場、料理旅館や土産物屋などもあり、 当時は、関西有数のレジャー地として賑わいました。 しかし、当時の白砂青松の美しい海岸線も臨海工場地帯の埋め立て造成に伴い、 その面影をなくしました。 (堺市HPより) ※勧業博では龍神噴水だったようで… |
ん?裏を向いた石碑 ※波除住吉神社址碑 |
この標石柱は、北波止場の突堤近くから出土した物です。 石の上部が失われていますが、残っている銘文から推測すると、 港に出入りする船に対し、運行上の注意を促すため、新地方(港の管理にあたる役所)が 慶応元年(1865)に建立したと考えられます。 建てられた当初の位置は判りませんが、 幕末の堺港の様子を示す資料として興味深いものです。 (看板より) ※ |
上部が欠失した石柱 ※慶応元年銘 |
新地方 大きく刻まれています。 |
モニュメント〜 ※龍女神像の由来碑 |
龍女神像は、明治36年(1903年)に開催された第5回内国勧業博覧会の際、 堺会場となった大浜公園の水族館前に設置されました。 博覧会終了後は「乙姫さん」の愛称で親しまれましたが、 昭和49年(1974年)の水族館とともに撤去されました。 堺市では、この像を平和と繁栄の象徴とし、 平成11年(1999年)の市制110周年記念事業の一環として、 旧堺港の北側の北波止緑地内に復元設置し、 ワッショイ2000世界民族芸能祭平成12年(2000年)7月の開会式に お披露目しました。 像は、青銅製で高さ10メートル、台座を合わせると全高26メートルになります。 夜になるとライトアップされています。 (堺市HPより) ※複製品なんですね。 |
波の上に立たれた感じが〜 ※ |
近くの見事な 龍の様な松 ※ |
八重桜も見納めの今日 |