腹も一杯で!
気を取り直し〜
※南に向いて〜
酔芙蓉ですね。
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コナレテますが〜
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森が気に成りますが〜
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ブロック塀で囲まれて〜
※開けました。
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高台が張り出した感じで〜
※鳥居見っけ!
近所の方が清掃されています。
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1874年(明治7年)、陸軍省が「陸軍埋葬地ニ葬ルノ法則」により階級により
墓碑の規格を統一した規定を制定した。
それ以後、四角柱に頭部が方錘型の形態になった。
なお、1886年(明治19年)の海軍省令のなかには頭部が方錘系である墓石を図示したものがある。
軍隊入営中に死去した者の墓碑を立てる際には、国や軍隊からの指導があったと思われ、
先祖代々の墓ではなく、特有の形の墓に葬られた。
頭部を方錘形にした理由は剣先を模したという説、儒教や神道の影響、
木柱の先頭の腐蝕を防ぐために四角錘状に切った形をとり入れたなど諸説ある。
(レファレンス事例詳細HPより)
※市内を一望できる場所には
古い桜の木と
石碑と〜
何やろか?
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獄中の歌
(エライ物騒な…)
戒めの名は〜
昭和12年7月20日
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聖神社さん
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770年(宝亀元年)8月4日異母妹の第48代稱徳天皇が崩御の後を受け、
10月1日夫の白壁王62歳が、藤原百川(ももかわ)や藤原永手(ながて)の推挙によって、
奈良朝最後の第49代光仁(こうにん)天皇に即位したので、
11月6日井上内親王は54歳で皇后になり、
翌年正月23日他戸親王11歳も皇太子になりましたが、
光仁天皇は皇位継承問題が浮上した時、身の危険を感じて酒浸りになり、
腑抜けを装い、、光仁天皇の即位を拒んだ吉備真備は孤軍奮闘したけど叶わず、
「長生の弊、この恥に遭う」と嘆き、政界を退きました。
772年(宝亀3年)3月2日井上内親王は、密告により
巫蠱大逆(ふこだいぎゃく、巫女に天皇を呪い殺す祈祷をさせること)の冤罪(えんざい)をきせられて、
皇后の位を剥奪され、同年5月27日他戸親王も母に連座して皇太子の位を剥奪され、廃太子になった。
なお、五條市の辺りは藤原南家ゆかりの地だったから、おそらく退官した藤原一族の館へ
預けられたものと思われますが、須恵一帯を下馬町と呼び、江戸時代ここを通行する者は、
大名といえども馬から下りて通る習わしがあり、それを犯すと、落馬するか、
禍を受けたと伝えられ、それもこれも井上内親王の幽居があったからで、
その跡に井上院(いじょういん)が建立され、現在井上町と云う自治会があり、
「聖神さん」と呼ぶ古い祠を祀り、境内で子供はいくら戯れて遊び、
おしっこを漏らしても祟りはないけど、大人が放尿でもしようものなら病魔に冒されてしまいます。
(五條市HPより一部抜粋)
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多宝塔の頭も〜
※古い桜の木が見守って〜
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高台にも時代の波が〜
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飾り瓦
鯉の滝登り〜
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イメージが…
頭がついて行かんと〜
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逓信省
※地下線
まだ埋まってるんでしょうか?
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