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前にも来ましたが〜 1 2 ※明治維新さきがけの地 |
五條市(ごじょうし)は、奈良県南西部で南和地域の中心都市。 過去の五條市(五條村、宇智郡)の記述についてはどちらの表記も出ている。 五條代官所がこの地にあった事などから明治の一時期「五條県」が置かれており、 当時の公文書等などからも『五條』とされていることが確認できる。 旧字体の簡素化が推奨される時代であった1957年の市制施行の際も、 初代市長である山本米三は表記を「五條市」として国及び県に申請している。 ところが官報の告示に「五条」と誤って記載されてしまったため、 市は即座に修正を行うよう国に要請し、次の官報では誤字であった旨が再告示されている。 一方、奈良県の広報には最初から「五條」と表記されている。 市制施行40周年を迎えた1997年、市民から表記の混在を少なくしようという運動が起こったため、 市は多くの公共機関に対して市名として用いる時の「五条」を「五條」と改めるよう要望を行った 結果、国(道路の案内標識)、奈良県、警察署、郵便局、主な新聞社、奈良交通などにおいて修正が行われた。 ただし現在でも、一部のコンピュータシステム等の問題(旧字体を使用できない、システム変更に費用がかかる)から 「五条」としか表記出来ないもの(例:銀行・郵便の貯金部門)や、固有名詞であるもの (例:「五条」を冠した会社名、駅名である「五条駅」)など、僅かながらも「五条」の表記が残っている。 (Wikipediaより) ※明治政府が成立したから 長屋門も立て直されたとか〜 でも、江戸幕府側が政権維持してたら… やはり立て直したでしょうね。。 |
立派な長屋門 清掃中〜 ※金剛ハロー号見に〜 |
動態保存ではない? 金剛山バックに〜 ※まだサンと、孫の玩具のトーマスみたいと。。。 |
大正初期に製作された旅客用の機関車で、それまでは英国製の2120形が過半を占めていた。 この8620形は我が国初めての国産機関車で、高速運転に適合して設計され特に先台車は1軸台車 でありながら2軸台車の作用をしているのも8620形式のみである。大正14年までその数687 輌の多くに達し、ハチロクの愛称を持って親しまれてきた。終戦後、昭和24年奥羽本線(福島〜大 沢間)43kmが電化されたのを皮切りに各幹線の電化、近代化により車令50年をこす8620形 は減少の一途をたどり、昭和47年4月には五能線(秋田)、唐津線、長崎線に合わせて30輌とな った。洗練されたスタイル、三訓和音の汽笛、大きな働輪はいつまでも当時の雄姿をしのばせること でしょう。またこのスポーク働輪は今でも国鉄のシンボルとして帽章に制服の釦に刻まれているのに馴 じみ深いことと存じます。8620形の元祖8620号(1号機は昭和37年10月東京青梅公園に 当時のままの姿で保存されています。ラストナンバーは88651号機であり、この78675号機は 616輌目に製造されたものである。(看板より) ※ |
街の向こうに大台ケ原の峰が〜 ※代官屋敷正面だったんですね。 |
代官屋敷の屋門を五條市民俗博物館が〜 その他の敷地は奈良家庭裁判所など法務局・検察庁が… ※文久3年8月13日、天皇の神武天皇陵参拝、攘夷親征の詔勅が発せられる(大和行幸)。 大和行幸を推進したのが、長州藩に気脈を通じる三条実美ら攘夷派公卿であった。 吉村虎太郎は松本奎堂、藤本鉄石、池内蔵太ら攘夷派浪士と共に、 大和行幸の先鋒となるべく大和国へ赴くことを決議。 14日、吉村らは中山邸を訪ねて忠光を方広寺へ誘い出した。 忠光を大将とする同志38人(内、土佐脱藩18人、久留米脱藩8人)は方広寺を出発して大和国へ向かった。 一行は長州下関へ下る勅使と偽って大坂から海路で堺へ向かう。 船中で忠光ら同志一行は断髪して決意を示した。 彼らの挙兵に際して淡路の大地主で勤皇家であった古東領左衛門は財産を全て処分し、軍資金として供出した。 (Wikipediaより) |
8月15日、堺(現在の堺市堺区栄橋町1丁の土居川沿い、 当地に堺事件の碑とならんで「天誅組上陸地」の碑が建てられている)に 到着した同志一行(以降、天誅組と記す)は 翌16日払暁に高野街道を通って河内をめざし、狭山に入った。 天誅組は吉村らを軍使として狭山藩の陣屋へ送り、先代藩主で隠居の身であった北条氏燕との面会を申し出た。 氏燕は急病と偽って面会を断り、家老朝比奈縫殿が代って対応する。 忠光は朝比奈に狭山藩も出陣して義挙に加わるよう命じた。 対応に苦慮した狭山藩はとりあえず天誅組にゲベール銃など銃器武具を贈り、 天皇親征の節には加わる旨を回答する。 天誅組は下館藩の飛び地である白木陣屋にも使者を送り、銃器武具を差し出させている。 天誅組は菊の御紋の入った旌一流、「七生賊滅天後照覧」と大書された幟一本をつくり、士気を高めた。 17日、天誅組は河内檜尾山観心寺に入る。 軍資金を調達に出ていた藤本鉄石が合流して出発、国境の千早峠を越えて大和国へ入った。 幕府天領の五条に到着した天誅組は、代官所を襲撃することを決める。 代官所を包囲した天誅組は代官鈴木源内に降伏を要求。 ゲーベル銃隊を率いる池内蔵太が空砲で威嚇し、吉村が率いる槍隊が裏門から突入した。 代官所の人数は30人程で、意気軒昂な天誅組に抗することができず代官所方は敗北し、鈴木は殺害される。 天誅組は代官所を焼き払い、桜井寺を本陣に定めた。 18日、天誅組は鈴木源内を梟首し、五条を「天朝直轄地」と称して、この年の年貢を半減することを宣言する。 天誅組は忠光を主将、吉村、松本奎堂、藤本鉄石を総裁とする職制を整え、 自らを「御政府」または「総裁所」と称した。 近隣の高取藩に那須信吾らを恭順勧告に送り、高取藩もこれに服する旨を伝えてきた。 一方、天誅組の挙兵を知った京の三条実美は自重をうながすべく平野国臣を使者に送った。 (Wikipediaより) |
※かっての桜井寺 重厚な面持ち R24号工事により境内は半分になり コンクリート製の本堂に建て替えられ、 江戸期の山門は埼玉県所沢市の狭山不動尊へ、 本堂は箱根に移築され 神奈川県南足柄市箱根町の桜井茶屋という 豆腐料理屋さんに成っている。 (説明文より) |
明治期の京都方広寺 前に〜 あの鐘が国家安康の曰く付きの物 鐘楼無しの丸裸ですね。 ※結果的には豊臣家が江戸幕府に 仇討ちしたんでしょうか? |
展示されていた Y新聞 ※それらより 私達が気になったのがこれ! 山車なんでしょうが〜祭りのことを 資料館に在中の学芸員さん(?)に お聞きしても良く判らないとのこと。 何時?何処で?なんて 街に出て、お年寄りに来かな〜と… 今ですよ今! でも、市のHPでは 現在五條市内に全部で23もの御霊神社があり、本社の秋祭は毎年10月下旬で、 渡御神事があり、御旗、神具を先頭に神輿が進み、 行列は100余名、御旅所では出店も出て賑わい、五條市内を御渡して、 夕刻本社に還幸しますが、市内至る所にある個々の御霊神社でも祭事が行われ、 子どもの山車(だし)も出て五條市内は祭り一色で賑わいます。 (五條市HPより一部抜粋) |
軒の垂木に獅子飾り 虎に竹、綺麗な透かし彫り。 ※ガラスの目玉入りの唐獅子 |
見事な群れの唐獅子 目玉が残念 ※ |
ホコリを払って 椿油で拭くだけでも 綺麗に成るんでしょうが〜 勿体無い! |
平成28年4月14日に九州では大震災(震度7)が熊本に…
平成28年10月21日には鳥取県中部地震(震度6弱)が〜 東日本大震災は6年目に…台風・豪雨水害被害で被災された方々に、 お見舞い申し上げます。阪神大震災も22年…今年こそエエ年に! マー君、お江戸へ長期貸出中。
えっ?皆様方、体調不良に家事・仕事にて お休み〜残念! |
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