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大和川堤防から富雄川沿いに〜 ※地蔵堂も〜 |
少し中に入りましょう。 ※ |
西名阪道横目に〜 ※木瓜の花満開! |
西日を受けて〜 影と二人連れ! ※神社は堤防沿いから〜 |
富雄川沿いの入り口 燈籠が御出迎え ※境内風景〜 |
拝殿舎正面 ※境内摂社 |
手水舎 ※手水鉢 何やら生活感が… |
お邪魔して〜 ※本殿舎へ〜 |
本殿舎 ※側面 |
背面から〜 ※拝殿舎内部には絵馬ではなくて 写真でした。 |
境内風景 ※扁額 |
拝殿舎から本殿舎 ※ |
お百度石 ※内務省BM? (水準点?) |
国家安穏 |
問屋の面持ち ※土蔵も〜 |
石臼も〜 ※ |
問屋の面持ち ※彼処に隠れた土蔵〜 なんて話しながら… |
道路は堤防上 此処は堤防下 ※地蔵堂は数カ所 |
本瓦倉庫 向こうに大福寺さん |
法隆寺自動車教習所 前には〜 ※北側の池には〜 |
天理軽便鉄道跡 (新法隆寺〜平端) 1911年の春から天理教ではのちに大正普請とよばれた本部神殿や教祖殿などの建築がはじまり、 信者達はその勤労作業のため天理教本部に向かうようになった。 その行程は大阪湊町から奈良駅経由で丹波市駅(天理駅)まで2時間30分前後、運賃は51銭を必要としていた。 そのため途中の法隆寺駅で下車して徒歩で天理教本部に向かう人も多かったという。 このような天理教の信者の旅客輸送を見込み、杉本久三郎他9名の発起による法隆寺駅前から 山辺郡丹波市町川原城(天理市)にいたる軽便鉄道の敷設免許が1912年1月4日に下付された。 そして11月27日に創立総会が開かれ、天理軽便鉄道株式会社(資本金25万円)が設立され、 社長には戸尾善右衛門、専務には杉本が就任した。 工事は1913年12月法隆寺側よりはじめられ、土地の売却に反対の地主に対し 土地収用審査会へ申立するなど遅れはあったが、それも解決した。 地形はおおむね平坦で富雄川と佐保川の架橋なども順調に工事が進み1915年1月13日に竣工し、 そして2月7日より運輸営業を開始した。 開業時の成績であるが、1日平均旅客数は4.5月が467人、6月188人と目標を大きく下回ってしまった。 その後旅客数は徐々に増加はしてきたが小鉄道のため発展の余地は限られており、 また新法隆寺駅の乗車人員と降車人員に大きな差から見られることから、 往路は天理軽便鉄道を利用し、復路は丹波市駅より奈良まで行き、 乗換して関西本線で大阪湊町にいくか1914年4月に開通した大阪電気軌道により大阪上本町にいったようである。 1916年に社長の戸尾は退任し、軽便鉄道補助法に基づく政府補助金を受けながら営業を続けていた。 こうしたところ大阪電気軌道は西大寺駅(後の大和西大寺駅)から南進して橿原神宮に至る、 畝傍線(うねびせん)(近鉄橿原線)の計画を立てた。 その路線は天理軽便鉄道の中間部を横断する形になり経営に多大な影響を及ぼすことになる。 そんなことから大阪電気軌道に対し認可の条件として天理軽便鉄道に対する補償または買収を義務づけられていた。 こうして両者の間で交渉が続けられ1920年10月2日に買収金額は132,000円、 従業員は大阪電気軌道が引き継ぐこととして譲渡契約が結ばれた。 そして10月29日の臨時株主総会で付議し可決された。 譲渡申請は12月6日認可され、1921年1月1日より大阪電気軌道天理鉄道線となり、 開業後6年に満たず天理軽便鉄道は解散した。 (Wikipediaより) ※ |
JR大和路線踏切越えて〜 |