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河合町: 大和川(初瀬川)・飛鳥川・曽我川、 近くに富雄川の合流部が集中した地区。 洪水の危険性は有ったが、舟便の物流合流部でも有った。 ※肥料倉庫 舟便輸送の名残? |
大和川上流で利用したのが魚梁(やな)船、下流では剣先船といわれる船が利用された。 魚梁船は上流の水深の浅くて流れが緩やかなところで支流にも入って行けた。 江戸時代に入って、奈良盆地では二毛作が始められ、菜種などの商品作物が栽培さ れ始めたのが水運発達を促したと思われる。河内から大和へは、肥料(油粕、干鰯)、 塩などや雑貨が上がり、大和の綿作りが栄、大和から河内へは米、綿花や雑穀など農 産物や特産物が下っていた。 宝永元年(1704)には河内側で大和川がまっすぐ西へ付け替えられ大和川船運は飛 躍的に発展した。 享保期(1716〜1735)の記録では、支流のかなり上流まで船が遡上していたことが わかる。川合浜に拠点があり、初瀬川筋は嘉幡(かばた)、寺川は今里、飛鳥川は松本 までさかのぼることができた。そこには浜(港)があり、問屋の倉庫が並んでいて、 各地に陸送する人馬が常備されていた。ちなみに、当時の時刻表によると今の奈良県 田原本町から大阪市内まで約十三時間かかっている。しかし、明治 25 年に大阪鉄道(い まの JR 関西線)の開通によって、大阪と大和盆地間の物資の交流は、これに奪われて しまうことになった。 (参考資料:「奈良大和の社会史点描」岩井宏實著) ※大塚山古墳 |
往時の風景想いながら〜 ※参道に続く道 |
李の花が咲いてました。 ※桜並木なんですが〜 |
官幣大社 廣瀬神社 一の鳥居 ※参道は鬱蒼とした社森抜けて〜 |
参道燈籠も〜 ※ |
参道狛犬も〜 ※参道行けば〜 |
阿 ※吽 |
手水舎 ※奉納兵機 |
私は戦争は要りませんわ〜 各地で勝戦時の戦利品を見ますが、 太平洋戦争時には供出されなかったんですね。 寺の梵鐘にまで手を出したのに… 人民の命の代償に得た、現代兵器の展示なんて、未来永劫要りません!!! PKO聞いてるか… 但し、兵器は格好良く見えるので困りますが〜 |
四っ脚鳥居 ※撮影中〜 |
※日本書紀によりますと1300年前に天武天皇が在位4年(675年) この地に水の~を祭り五穀豊穣を祈願する「大忌祭」おおいみの祭りを始めたと伝えられています。 この祭りはその中の御田植祭礼が形を変えて残ったと言われています。 「大忌の~」は山の水が良い水となって稲の苗を育て穀物の豊かな実りをもたらす水の~さまです。 ちなみに当時の飛鳥川は今より水流も多かったようです。 毎年2月11日に奈良の広瀬神社で行われる奇祭「砂かけ祭り」は午前-11時の「殿上の儀」から祭りは始まります。 田を耕す人の役と農耕牛-の役をする人が登場し、地面を耕す動作をした後、 おもむろに手に持ったスコップで周囲の人々に砂をかけます。 見物人もまた砂をかけ返します。これは砂を雨に見立ててかけ合い、米が豊かに実るように祈るのだそうです。 砂かけが終わると巫女さんが田植えの儀式をし、最後には「松苗」と「田餅」が撒かれます。 (看板より) |
檜皮葺き拝殿 ※やはり物資の集積地の氏神様 |
神馬舎 ※青銅製 高岡製? |
川合村銘石燈籠 ※白鶴 金鼓(香芝市鎌田の酒) |
拝殿舎よりの本殿舎 ※拝殿舎の奉納吊灯篭〜 |
本殿舎 ※水足明神(みずたる) 水の管理は大切です。 |
桜が綺麗でしょうね。 ※ |
寄附 土地 三畝十五歩 |
太鼓橋 コレも水運の名残と伺いましたが〜 ※魚梁(やな)船が下を通りやすくするために〜 |
堤防向こうは大和川 其処に川舟が集ったとか〜 現在大和川と曽我川の合流点にある広瀬神社は、 江戸時代には大和川の中州 に鎮座していたといいます。 ※奈良縣 |
彼処にも古墳が〜 |