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春の大和路〜浮ドンと!
田原本から法隆寺へ〜
久々のタンデムぽた、いつもの旧村・神社廻り。。
超有名人・神宮寺・狛犬〜色んな出会いが!

川西町保田(六県神社) 23

昨年からの目標はフルサイズ!
フルメンバーは、中々時間が取れなくて・・・
青空の下、生駒颪の北風ピープー…久々の浮ドンと〜
だからいつもの路地探し。。。
相棒自転車は片倉シルク号(昭和41年10月製)
えっ、ウルトラQ・ウルトラマンやビートルズ来日、
トヨタカローラ・グリコポッキー発売
ウォルト・ディズニー死去の年代
(Wikipediaより)


※マウスポインターを置いてください。 
                                           撮影:平成28年03月21日
                                           UP日:平成28年03月28日

西に〜段々と生駒が近くに!

※条里制も桑畑だったなんて考えたら…
大台ケ原も遠く遠く〜

保田集落が近くなって〜

※外側から〜

コーナリング中〜

※圃場が明治期のママ…

何?フェンスで囲まれて〜
水道施設?

※大きめの地蔵様が脇に〜

唐臼も〜
唐は加羅とか…

※旧村内に〜

ん?何??

※見返って〜
煙抜き屋根も〜

華道池坊松雪軒碑
華道池坊は京都ばかりで…
ググっても出てきませんでした。
何でしょうか?

※読めない〜

角の蔵

※屋門


樋も凝っていて〜
竹意匠。

※煙抜き屋根

村中路地を〜

※曲がりくねって〜

スタンダード家屋

※袖壁・土蔵

六懸神社サン

※扁額
境内お邪魔して〜

お百度石

※手水鉢

小さな御堂
地蔵堂かな?

※裏も〜

 元、この御堂は三重の塔だったとか。
平安時代に建てられた三重塔で、昭和9年に荒廃していた所を
東京の細川邸に建材を移し、その後さらに法隆寺に移し
単層の堂として残されている。
(看板より)

富貴寺(ふきじ)は奈良県磯城郡川西町にある真言宗豊山派の寺院である。
平安初期に法隆寺夢殿を再興し、法隆寺の学問振興に力を注いだ
道詮(どうせん)が晩年に開いたとされる。
今は壺阪寺の末寺となっているが、無住の寺となっている。
(Wikipediaより)

聖徳太子関係、本日4院目

神宮寺
富貴寺さん



簡素な飾り瓦〜

※鬼瓦が隠れていて。

 焼け具合の違う本革らが綺麗に〜

※本堂裏側〜

 他の神社も、こんなお寺が神宮寺で
皆、在ったのでしょうか?
もっと大きいか〜〜なんてアホ話もしながら〜

※神社裏の路地

 濡れ縁に一日中座ってみたいなぁ〜

 正面を横から〜

※脇の石材
何用でしょうか?

神社拝殿舎
お寺のような〜

※六県(むつがた)神社
祭神
高市命、葛木命、十市命、志貴命、山邊命、曾布命


2月11日(以前は2月14日)の夜、六県神社拝殿にて演じられる御田植祭。この御田植祭
には妊婦の弁当運びの時に出産の所作が伴うことから「子出来おんだ」とも呼ばれる。
この行事の始りは、境内富貴寺の創建時(平安時代)と伝えるが、明確ではない。
しかし、御田植祭にて演じられる所作や台詞を見るとかなり古風な様式を持っていると認められる。
行事内容は、古老(十人衆)が拝殿右(北)側に座り、その前で演じられる。その所作
は@水見回り、A牛使い、B施肥、C土こなげ、D田植、E螺拾いと、妊婦の弁当運びと
安産の神事及び種まきの所作と掛合い言葉の順に演じられる。
妊婦の弁当運びと安産の神事では弁当を夫のもとに運ぶ所作を行った後、
以下のようなやりとりを行う。
神主(夫)が「東 田は」(東の田へ弁当を幾ら持っていったか)と問えば ひがしんだい
妊婦(妻)が「三バイと二杯と又五杯」(十杯持っていった)と答える。以下同様に
神主「西 田は」 妊婦「四杯と四杯と又二杯」 にしんだい
神主「北 田は」 妊婦「三バイと三バイと又四杯」きたんだい
神主「南 田は」 妊婦「二杯と二杯と又六杯」 みなみんだい
神主「臺所廻りを尋ねます」 妊婦「ハイ」 たなもとまわ
神主「水は」 妊婦「水壺の中に」
神主「杓は」 妊婦「水壺の上に」
神主「お杓子は」 妊婦「釜の蓋の上に」 しゃもじ
神主「箸は」 妊婦「箸筒に」
神主「茶碗は」 妊婦「茶碗籠の中に」
神主「オセンソコ(ご飯のこと)は」 妊婦「櫃の中に」
と問答を繰返す。このあと妊婦が「キリキリ腹が痛くなりました」と陣痛を訴え、腹に抱
えていた太鼓を放り出し、神主がその太鼓を拾って「ボン(男の子のこと)出来た出来た」
といって太鼓を叩く。
(川西町HPより)


※昭和四年
保田耕地整理組合銘

本殿舎

※狛犬



※吽

横書き扁額

※本殿舎横から

 神社拝殿舎から
神宮寺望む

※絵馬は武者絵

 本殿舎

※社殿内狛犬も〜

記念燈
舟着場に建っていたのでしょうか?

※側面

明治四〇年(世界恐慌の年)
大字保田
日露戦争記念ですかね?

堤防上の大きなケヤキ
舟着場の目印に成っていたんでしょうか?

※塀で目隠しされていますが
本殿舎裏から〜

 お百度石
お洒落に〜

※説明板が建っていた?

貝ボタン産業は、明治20年ごろドイツ人の技術指導によって、
兵庫県神戸市に初めて伝わったとされています。
それが明治30年ごろには大阪の河内地方へと伝わり、
その後、和歌山県や奈良県へと伝わってきました。
奈良県に本格的に伝わったのは明治38年ごろで、
このころ奈良県では木綿織物や養蚕業といった産業が衰退の一途をたどっていました。
また奈良県では江戸時代から綿加工業が農家で盛んでしたが、
明治30年代に品質改良の不十分さや他府県での生産が成長するなどの理由で苦境にたたされていました。
そこで、農家の副業として貝ボタン製造が家内工業的に取り入れられるようになっていきました。
初期投資が小額で済むことや原材料が前貸しという利点から、現金収入を必要とする農家で
貝ボタン製造に従事するものが続出しました。
原材料となる貝は、当時すでに赤道直下付近の諸国から輸入されており、
海沿いの地域であるかどうかということは関係なかったのです。
神戸と大阪の経済交流と、大阪と大和(奈良県)の舟運で結ぶ物流によって情報交換が行われ、
ある先人のだれかが貝ボタン産業を川西町へ普及させるよう尽力したことが予想されます。
川西町では「貝ボタン熱に浮かされて、小学児童の出席率が低下した」といったブームが沸き起こり、
その頃を知る人に話を伺うと「抜いた貝殻を割って道のへこんだところに埋めていた」
「勉強より貝ボタン製造の手伝いをしている時間が長かった」など、
いかに川西町が貝ボタン製造に沸いていたかがよくわかるエピソードです。
昭和に入ってからも川西町の貝ボタン産業は繁栄を続け、昭和20年ごろから
30年ごろには約300世帯のうち約200世帯が貝ボタン関連業者という地区もあったほどです。
長引く不景気の影響や合成樹脂製品の台頭により、川西町の貝ボタン産業は受注の減少による売上の低下、
後継者不足などが大きな要因となって廃業する業者が後を絶たない状況が続いてきました。
前述したように、川西町内のある地区では、300世帯のうち約200世帯もが貝ボタン製造に
携わっていた時代もありましたが、現在では川西町全体で30軒に満たない状況となっています。
(川西町HPより)




水との戦い
石垣に〜

※煙抜き屋根が多い地区

先へ〜



横目でキョロキョロ〜

※北へ〜
ゆっくりと…

静かな路地です。

※日型路地

横目でキョロキョロ〜

※セルフポートレート

光林寺さん
鐘楼〜



横目でキョロキョロ〜

※コナレ板壁

桟瓦路地ですが〜

※黒壁も好きですよ〜

西方向へ〜
旧村外れに太神宮石燈籠

※皇太子殿下御誕生記念碑

見返って〜

※川西町から河合町へ

上流方向
曽我川(曽我川・葛城川・高田川の合流部下流部)
遠く葛城の峰が〜

※下流方向〜
東日本大震災は6年目に…台風・豪雨水害被害で被災された方々に、
お見舞い申し上げます。阪神大震災も21年…今年こそエエ年に!
マー君、お江戸へ長期貸出中。
えっ?皆様方、体調不良に御仕事にて
お休み〜残念!
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