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今年も、フルサイズで頑張ります。 ※JR大阪東線(現:JR城東貨物線)建設中〜 駅舎も形は見えてきました。 線路の東側風景 |
西側風景は〜 旧の姿 ※此の日は、上六集合なので… |
セルフ・ポートレート! |
京阪電車横目に OMMビルも 大阪マーチャンダイズ・マートビル(おおさかマーチャンダイズ・マートビル)は、 大阪市中央区大手前1丁目にある複合ビル。 天満橋交差点の北東角に位置し、通称「OMMビル」の略称で親しまれている。 天満橋駅ビルと谷町筋を挟んだ天満橋南詰に立地する。 横幅の長い壁のような外観が特徴的で、 米国シカゴにあるマーチャンダイズマートビルをモデルにしている。 (Wikipediaより) ※京橋渡って〜 大阪砲兵工廠化学分析場の 煉瓦建物横目に〜 |
私の好きな いつもの道なんですが〜 ※大坂城に手を振って。。 |
昔は軍隊施設だった所も 横目で〜 ※大阪府庁舎も 長いこと工事中〜 (耐震化ですかね?) 中に保育所作ったら?? |
難波宮 前期難波宮 朝堂院の北に内裏が隣接する 乙巳の変ののち、645年に孝徳天皇は難波(難波長柄豊崎宮)に遷都し、宮殿は652年に完成した。 天皇制の始まり、元号の始まりである大化の改新とよばれる革新政治はこの宮でおこなわれた。 この宮は建物がすべて掘立柱建物から成り、草葺屋根であった。 『日本書紀』には「その宮殿の状、殫(ことごとくに)諭(い)ふべからず」と記されており、 ことばでは言い尽くせないほどの偉容をほこる宮殿であった。 孝徳天皇を残し飛鳥(現在の奈良県)に戻っていた皇祖母尊(皇極天皇)は、天皇が没した後、 655年1月に飛鳥板蓋宮で再び即位(重祚)し斉明天皇となった。 683年(天武12年)には天武天皇が複都制の詔により、飛鳥とともに難波を都としたが、 686年(朱鳥元)正月に難波の宮室が全焼してしまった。 後期難波宮 奈良時代の神亀3年(726年)に聖武天皇が藤原宇合を知造難波宮事に任命して 難波京の造営に着手させ、平城京の副都とした。 中国の技法である礎石建、瓦葺屋根の宮殿が造られた。 その後、聖武天皇は平城京から恭仁京へ遷都を行っているが、 天平16年(744年)に入ると難波京への再遷都を考えるようになる。 この年の閏1月11日、聖武天皇は行幸を名目に難波宮に入り、 2月26日に難波京への遷都の詔が正式に発表された。 もっとも、その2日前に聖武天皇は再々遷都を視野に入れて紫香楽宮に行幸しており、 難波宮には元正上皇と左大臣橘諸兄が残された。 このため、聖武天皇と元正上皇との間の政治的対立を想定する説や難波遷都は 紫香楽宮の都城設備が完成するまでの一時的な措置であったとする説もある。 最終的に翌天平17年1月1日、難波京から紫香楽宮へ遷都が正式に発表された。 難波遷都も紫香楽遷都も聖武天皇の意向であったと考えられ、 短期間での方針変更が混乱を招いたと言えよう。 (Wikipediaより) ※上町通り 寺町通って〜 |
近鉄 大阪上本町駅 ※輪行しましょう〜♪ |
浮ドンも大阪駅から走ってきたとか〜 彼の相棒は、ブロンプトン〜 ※近鉄大阪線の最後尾、 他の方の邪魔にならないように… エエ風景見られました。 |
大和八木駅 オーバークロスしている橿原線に 乗り換えしますが… スズメバチ顔した特急〜 (色も〜) 京都へ向かう方の乗車は、多かったです。 ※橿原線の 新ノ口連絡線 大和八木駅構内に、橿原線新ノ口駅と大和八木駅大阪線ホーム間を連絡する新ノ口連絡線がある。 この連絡線は、京伊特急・名古屋⇔天理の臨時特急・名古屋⇔大和西大寺の臨時特急、 高安検修センターまたは五位堂検修車庫に入出場するための回送列車が使用している。 (Wikipediaより) へぇ〜 |