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梅満開!天満宮の多い地区。
枝切街道と旧村を一人でブラリ〜

行き道 01

ミニランちゃんと、ソロポタなんですが〜
イニシエの初めのページ01風景も見られました。
今思えば、このページの原点ですね。

※マウスポインターを置いてください。 
                                           撮影:平成28年02月21日
                                           UP日:平成28年02月25日
                                           

いつもの路地通って〜

※関目神社サン
横目に〜

城北運河渡って〜

※脇の地蔵様

大宮神社サンも
横目に〜

錦水湯サンも〜
この日はテストで
単焦点レンズを使用しました。
スカッと写ってますね。

大宮中学校横の
旧淀川堤跡
(歩道線の盛上がりが分かりますか?)

※OITAC
(大阪工業大学自動車部)
壊しましたか…

豊里大橋
このグラウンドでは
20年間ほど草野球しましたわ。。

※平太の渡が在ったんですよ。
大阪万博前に渡しに乗って
豊里大橋の建設を、下から眺めた思い出も〜

平太の渡し跡碑



平田の渡しは延宝4年(1676)頃に開かれた。
大坂町奉行から認可を受けて、手広く渡船業を営んだ
土豪沢田佐平太の名からとったものではないかと言われているが、
当時の渡しは、西成郡豊里村大字天王寺荘字平田と
東成郡古市村大字今市を結んでいたので、この地名からきたとも考えられる。
この地は丹波地方や大和地方への交通の要地で、
淀川を上下する川船を改める番所があり、淀川両岸は渡船で結ばれていた。
この渡しは、明治の新淀川開削工事によって、
明治37年以降は豊里村内の飛び地を結ぶ村営渡船場(請負制)として存続し、
大正14年に豊里村が大阪市に編入されたのに伴い市に引き継がれ、昭和23年4月には直営となった。
しかし、同45年3月、豊里大橋の開通により300年に及ぶ歴史を閉じることになった。
(大阪市HPより)


※昭和49年銘
十津川産の自然石を使ったとか〜

広い河川敷風景も好きです。
蒸気船か三十石船が見えたような〜

※ボーイスカウトの大会?

まだ桜は早いですね。

五箇樋跡碑
御野立所石柱


八雲から

大桐向けての
高圧電線

あの森は?

八雲神社サン


八雲神社サン

※クレーン車二台使って、高枝伐採中。
神社境内保全も大変ですね〜

この辺りにも
大庭8番〜対岸の一津屋に
昔は渡舟が在ったとか〜
(〜1935年頃)

※開通時には
有料橋だった鳥飼大橋〜
昔、日通で働いていた
ワンコ時代の散歩仲間の方が話されてました。

守口JCT
鳥飼大橋も改築予定と聞きましたが〜

※新橋梁
土台は工事中〜
東日本大震災は6年目に…台風・豪雨水害被害で被災された方々に、
お見舞い申し上げます。阪神大震災も21年…
世界の人々が平和に暮らせますように〜
今年こそエエ年に!

マー君、お江戸へ長期貸出中。
えっ?皆様方
お休み〜残念!
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