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このページをUP作業中に 三代目桂春団治師の訃報を新聞で知りました。 このページを、私の好きだった 『野崎参り』の野辺に見立てて 師に捧げます。 ご冥福をお祈りさせて頂きます。 二階堂(藤川)の集落 ※八條の集落 |
菅田神社参道 ※菅田神社の森 |
八條の集落入口 大和棟も見えます。 ※三郷橋 渡れば〜 |
佐保川 昔はホタルの里だったとか〜 ※西に渡った所に 道標が有りました。 |
髭題目(南無妙法蓮華経) 法界 ※右 郡山・京 左 法隆寺・龍田・高田・高野 道 |
すぐ にかひどう 丹波市 はつせ 吉野 道 ※世話人堺出店富堂邑宗兵衛 石工郡山善三 刻(?) |
長安寺の集落 集落の形は『田』文字型 ※柿の木と万両の実 晩秋には絵になったでしょうね。 |
家屋門 ※集落中心のメイン通り |
牛乳箱は下に置き型 ※静かな佇まい |
銅板張り土蔵 ※家紋? |
絵になる樹木 ※ |
崩れた築地に イニシエの風が〜 ※出格子が付いた家屋門 |
Kさん 絵になりませんかね? ※郵便箱 簡易郵便局ですかね? |
集落の周りには 堅固な築地が〜 ※石臼?手水鉢? |
甍の波 ※外堀に成りますかね? |
城郭にしたら大手門に辺りますね。 ※立派です。 |
環濠? ※造り酒屋さん? 奈良酒は昔からの名物なんですね。 |
辛夷の蕾は 流石に堅い〜 ※筒井順慶墓 筒井 順慶(つつい じゅんけい)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名。得度して順慶と称する前は、 室町幕府13代将軍・足利義藤(後の義輝)の偏諱により藤勝(ふじかつ)、藤政(ふじまさ)と名乗っていた。 大和筒井城主、後に大和郡山城主。天正10年(1582年)6月2日、明智光秀が信長を討ち取った本能寺の変が起こった。 順慶は福住順弘・布施左京進・慈明寺順国・箸尾高春・島清興(左近)・松倉重信ら一族、重臣を召集して評定を行った。 光秀は順慶が信長の傘下に入る際の仲介者で縁戚関係にもあり、武辺の多い織田軍団としては数少ない教養人同士として友人関係にもあった。 そのため、光秀からは変の後即座に味方になるよう誘われた。 順慶は辰市近隣まで派兵して陣を敷いたが、積極的には動かなかった。 その後も評定を重ね、一度河内国へ軍を差し向ける方針を立てたが、結局は食料を備蓄させて篭城する動きを見せた。 6月10日には、誓紙を書かせて羽柴秀吉への恭順を決意した。 同日、光秀の家臣・藤田伝五郎が順慶に光秀への加勢を促すよう郡山城を訪れたが、順慶はこれを追い返している。 11日には、順慶が大和郡山で切腹したという風聞を始め流言蜚語が飛び交った。 光秀は親密な関係にあった順慶の加勢を期待して、洞ヶ峠に布陣し順慶の動静を見守ったが、順慶は静観の態度を貫徹した。 洞ヶ峠への布陣は、順慶への牽制、威嚇であったとも解釈されている。 光秀が洞ヶ峠に出陣したことが後世歪曲されて喧伝され、順慶が洞ヶ峠で秀吉と光秀の合戦の趨勢を傍観したという、 所謂洞ヶ峠の故事が生まれ、この「洞ヶ峠」は日和見主義の代名詞として後世用いられている。 結局、光秀は13日に山崎で秀吉と刃を交えて敗死した(山崎の戦い)。 光秀は謀反に際し、自らの与力的立場にある近畿地区の織田大名たちが味方してくれることを期待していたが、 このうち18万石(大和の与力を合わせると45万石)の順慶と12万石の細川幽斎に背かれたことは、 その兵力もさることながら、ともに名門で影響力も大きいこともあって致命傷となった。 14日、順慶は大和を出立して京都醍醐に向い、羽柴秀吉に拝謁した。 この際、秀吉は順慶の遅い参陣を叱責したという。 多聞院日記は、秀吉の叱責によって順慶が体調を崩し、その話が奈良一円に伝播して人々を焦燥させたという話を伝えている。 27日、織田家の後継者を選別する清洲会議が実施され、順慶は他の武将達と共に列席している。 7月11日には、秀吉への臣従の証として、養子(従弟、甥でもあった)定次を人質として差し出している。 光秀死後は秀吉の家臣となり、大和の所領は安堵された。天正12年(1584年)頃から胃痛を訴え床に臥していたが、 小牧・長久手の戦いに際して出陣を促され、病気をおして伊勢・美濃へ転戦。 この無理がたたったのか、大和に帰還して程なく36歳の若さで病死した。筒井家は定次が継いだ。 (Wikipediaより) ※ |
改善記念碑 大和郡山市長 吉田泰一郎 昭和44年 ※手水鉢 |
五輪塔覆堂 天正12年に郡山城中で亡くなり 門証寺に葬られ、後に此の地に改葬されたとか。 ※正面から〜 |
綺麗な本瓦葺き ※内部の五輪の塔が 垣間見えます。 |
重要文化財は、墓碑ではなく 覆屋なんですね。。 ※いつ迄も大事にして下さいね。 |
水路の石垣にも 往時の無念が感じられます。 安らかに眠ってくださいな。 ※真ん中の道は昔から在った道 一心寺さんの墓地が〜 多宝塔型墓碑が目に付きます。 |
本瓦葺き屋根に目を取られ 北側の厳島神社サン 見落としました…残念〜 ※近鉄橿原線踏切渡って〜 |