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北へ向かって〜 JR線路に、ぶつかります。 上は新幹線、下は在来線 |
天神川(西高瀬川) 上流風景 ※下流方向 えっ?水位を上げれば高瀬舟も〜 溝ですわね。。。 |
此処でも この形の鋼板橋 ※この地の原風景? 湿地帯の様相 |
こんな感じ。 ※メダカも居そう〜 |
洛陽工業高校校舎裏側〜 洛陽工業高校 平安京の京都は、東西を分割して中国古代王朝の都となった町の名前で名づけていました。 西側の右京を「長安」、東側の左京を「洛陽」と呼んでいました。 ところが、右京の「長安」側は湿地帯が多かったことなどからほどなく廃れ、 市街地は実質的に左京すなわち「洛陽」だけとなりました。 このため京都を「洛陽」と呼ぶようになったといわれています。 ※洛陽工業高等学校は、このような京都の雅な呼称を冠した日本で最も古い公立の工業高校で、 今年(平成27年)で創立130年を迎えます。 (京都市HPより) |
地蔵様のある風景 ※4地蔵様 |
洛陽湯サン ※入りたかったんですが〜 帰りに湯冷めしそうで…汗 |
旧唐橋村近く ※ベンガラ色 家屋 |
西寺児童公園 到着! ※あの丘が〜 |
東西寺の造立がいつ頃始まったかは定かではないが、『類聚国史』の延暦16年(797年)4月4日条に 笠江人が造西寺次官として記載されているのが記録上の初見とされる。 弘仁6年(815年)に造西寺司が任命されて以降、関連する人事記録は見られないため、 これ以降に一応の完成をみたとされている。 嵯峨天皇の時の弘仁14年(823年)、東寺は空海、西寺は守敏に下賜されたとされるが、 『高野春秋編年輯録』に記されたこの記録は伝説性が強いとされている。 天長9年(832年)には講堂が完成した。その後貞観6年(864年)までに薬師寺から僧綱所が西寺に移転された。 醍醐寺縁起には延喜6年(906年)に聖宝が西寺別当となったという記述があり、西寺の整備を行ったとある。 これ以降他寺出身者が西寺の別当となることがはじまった。 正暦元年(990年)に火災があったが、ほどなく再建されたと見られる。 建久年間(1190年代)には文覚が塔の修理を行った。 この建築作業を明恵が見物している。 しかしその後荒廃し、再建された塔も天福元年(1233年)に再び焼失、以降に廃寺になったと考えられている。 しかし、たなかしげひさは『二水記』大永7年(1527年)10月27日条に「西寺に陣を敷いた」という記録があることから、 戦国時代の中期頃まで西寺は存続していたと推測している。 西寺の衰退原因は立地である右京の水はけが悪く、 平安後期には住民がいなくなったために環境が悪化したことや、 朝廷の支援を受けられなくなったことも指摘されている。 (Wikipediaより) ※金堂跡とか |
礎石 ※ |
栄枯盛衰 物悲しく〜 ※ |
西寺の跡は1921年(大正10年)に国の史跡「西寺跡」(さいじあと)に指定された。 昭和34年からの発掘調査により、金堂・廻廊・僧坊・食堂院・南大門等の遺構が確認され、 当初の未指定部分が1966年(昭和41年)に追加指定された。 在来の土壇は講堂跡と判明した。東寺とあいまって平安京の規模を知る上にも重要とされる。 現在は発掘時出土した金堂礎石の一部が残るのみで、 京都市立唐橋小学校の敷地や講堂跡の都市公園唐橋西寺公園になっている。 塔跡は、唐橋小学校の敷地付近だが礎石等は地下に埋もれているのか 小学校造成時までに破壊されたのか確認されていない。 史跡指定地は唐橋小学校敷地、唐橋西寺公園敷地、 同公園以北・東寺通以南の民有地と、これらの西側の道路を含む。 なお、唐橋西寺公園近くの南区唐橋平垣町には浄土宗西山禅林寺派の「西寺」が後継寺院として存在する。 (Wikipediaより) ※公園脇の砂路地 |
写真館も〜 ※鎌達稲荷神社サン |
鎌達稲荷社 元、陰陽師安倍晴明が子孫、安倍・土御門家の祭祀にして、 万生業に福利を授け給う開運の神・倉稲魂大神と、 広く人事を良きに導き、交通安全の神でもある猿田彦大神が主神で、御鎮座地は、西寺跡であります。 鎌達さま御利益由来には、開運・勝負運を招き奇蹟を生む神さまの霊験ありと敬われております。 お守りのうち、サムハラ呪符は災難除け、奇蹟を生むお守りと言われています。 (京都観光NaviHPより) ※石燈籠 |
社務所 私達の御参り時にも 護符を分けて貰いに来られていました。 ※奈良朝初期(和銅4年)の御鎮座で 伏見稲荷大社よりも古く元稲荷社とも伝えられているとか。 (看板より) |
新し目の狛犬 阿 ※吽 |
手水鉢 ※白菊稲荷大神 |
ツインズ長屋 |