JR快速で桂川駅到着
※自衛隊桂駐屯地が隣接してます。
昭和29年開設だとか…
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平成20年に開設された新駅だとか〜
※仮の駅舎名は桂駅だったとか〜
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井路は河岸段丘のように
整備されています。
※駅から東へ〜
本日、初めての稲荷社
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大神宮社・稲荷社由来記
七本松町(小字?)
google地図で見たら見当たりません〜
※二座祀られて〜
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常光寺さん
※エノキのある広場〜
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上久世集会所です。
※歴史の証人ですね。
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会館は昭和45年
綾戸国中神社からの寄贈とか。
万博の都市か〜
この地区のキーワードですね…
(謎解きは後ほど〜)
※愛宕山燈籠も〜
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座って電話する?
違うでしょうなぁ
※医院さん横目で〜
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参道の向こうの森が呼んでいます。
※綺麗な生け垣
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家紋・名前入りの飾り瓦
※鳥居と参道が見えました。
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昔ながらの無垢の四足鳥居
※見返れば〜
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蔵王堂光福寺
京都7つの森の1つ
蔵王の森とか〜
※創建、変遷の詳細不明。
平安時代、955年、第62代・村上天皇の勅願寺として創建されたという。
平安京の西南、裏鬼門の地に当たり、都を鎮護する役割があった。
開基は、浄蔵貴所(じょうぞう きしょ)という。霊告により蔵王権現をこの地に遷したという。
室町時代、少なくとも1352年、真言宗の東寺(教王護国寺)の支配下にあった。
近世(安土・桃山時代-江戸時代)以降、天台宗の三鈷寺の末寺になる。
近代、四宗兼学より、西山浄土宗に改めた。
現代、1978年、廃れていた洛西三十三所観音霊場めぐりが再興された。
平安時代の僧・浄蔵貴所(じょうじょうきしょ、887-946)。
比叡山の呪術憎、法観寺の住職、雲居寺(うごじでら)の僧ともいう。
八坂庚申堂(金剛寺)を建立したという。
948年、五重塔が西に傾いた際には、験力を持つという東隣の雲居寺(うごじでら)の
僧・浄蔵貴所の加持により元に戻したという伝承がある。(『元亨釈意』)。
952年、浄蔵の加持祈祷後、子の刻(午前零時)、乾(北西)からの微風により
塔と宝鉾が動き、唸り、大地が揺らぎ、元に戻ったという。(『大法師浄蔵伝』)。
寺に入った賊十数人を大声で一喝し失神させ、その罪を諭したという。
浄蔵については、堀川にかかる一条戻橋の名の由来に関わりがある。
また、祇園祭の山鉾・山伏山の人形は浄蔵がモデルといわれている。
伝承 創建にまつわる伝承がある。
平安時代、955年、浄蔵貴所は、吉野山大峰山金御嶽の岩屋で密法の修行を終え都へ帰る際に、
蔵王権現が現れた。
権現は、自らを連れて帰るようにと乞い、永く衆生を守護するという。
浄蔵貴所は権現を肩にかけ背負うと、たちまちにして木像と化したという。
浄蔵貴所は、桂川の畔で持っていた鉢を水に落としてしまう。
鉢は独りでに川を遡り、北に向い岸で止まった。
その地が現在の蔵王堂の東の川だったという。
その地には円い光が輝いており、近づくと弁財天女の霊場だった。
背負ってきた蔵王神像も石のように動かなかった。
夜、西に丈六のナギが生えたという。明天老翁が現れ、「弁財天医王善逝(ぜんせい)」と唱えて拝した。
翁は、この地が医王弁財天女の影向(神仏が仮の姿をとって現れる)地という。
このため浄蔵貴所は堂宇を建て、霊像を安置し本尊としたという。(『都名所図会』)
(京都市HPより) |
参道脇のモチノキ
※100m程の参道〜
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此処にもモチノキ
※木肌には樹液採取痕〜
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鳥居付き山門
明治期の神仏分離と廃仏毀釈は
大丈夫だったのでしょうか?
参道燈籠は家屋の形
※阿吽像も設置されています。
医王山扁額も〜
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阿
※吽
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境内は神社のような…
※地蔵様
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此処にも家屋型燈籠
後ろは地蔵堂
※大きな楠が
森を形作っています。
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市指定保存樹だとか〜
※手水舎
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三本の大きな楠
※蔵王堂正面
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大聖不動明王
※薬師堂
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大聖不動明王
※ケヤキが青空に手を広げて〜
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御参り〜
※本堂から東〜
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境内見返って〜
※奥には子守勝手社・子守大明神
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福宝弁財天女
※檜皮葺です。
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庭園の紅葉が残っていました。
※拝殿社正面と境内
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社紋入りの家屋型燈籠
盃状穴は見られませんでしたわ。
※歴史の証人
木製鳥居
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参道脇には白壁土蔵も〜
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