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西楽寺さん 鐘楼門 ※松井拳堂さんの達磨 |
あの石燈籠は〜 キリシタン燈籠? マリア像が見えないために織部燈籠ですね。 つくばいの鉢明りとして使用する、四角形の火袋を持つ活込み型の灯籠。 その為、高さの調節が可能である。露地で使用される。 奇抜な形から江戸時代の茶人・古田織部好みの灯籠ということで「織部」の名が着せられる。 石竿に十字模様や聖人(実際は地蔵菩薩)のようにも見える石像が刻まれており、 これをもってキリシタン灯籠と呼ばれることもある。 ただし、織部灯籠をキリシタン遺物と結びつける説が現れたのは昭和初期からであり、否定的な学者も多い。 (Wikipediaより) ※立派な木彫 |
本堂 ※彫刻が見事に |
杓文字が絵馬替わり 前には〜 |
龍の彫刻も良いですね。 ※梅に虎 向い茗荷紋 |
獅子と象も〜見事! ※右に垂れた紐で釣鐘を鳴らす〜 |
松井拳堂は 本名を治郎兵衛と言い 通称を拳、号を拳堂と称し 明治10年11月17日 柏原に生まれました 明治21年に柏原崇廣高等小学校を卒業の後 田村竹巌(本名を 捨三郎と言って 柏原藩の藩校「崇廣館」の教授だった田村看山の養子) が 柏原に開いた 「明新館」と言う漢学塾で漢学を学びます 拳堂の曽祖父も柏原の石田にあった 梅本台鏡の開いた心学塾「廣胖舎」で心学を学んだ人物で松井屋治右衛門と言いました 拳堂はそんな家風を受け継ぐ家で育ちます 明治30年には 福知山歩兵第二十連隊 第5中隊に入り 3年間の兵役の後 新井小学校、前山小学校などで教鞭を執り その後 日本体育会体操学校高等科(現 日本体育大学)に入学し 卒業の後は 静岡中学校で教鞭を執りました ところが在職中の明治37年4月に日露戦争が勃発し 動員令が降り この召集に応じて従軍します 出征の時 拳堂は病気で食事もできない ほど衰弱していたにもかかわらず「 もし軍医に見せたら補充隊に残されてしまう」と言って 病を隠し出征されたそうです 凱旋の後は 神戸脇浜小学校、小田原中学校、大阪北浜 中学校、神戸第一中学校などで教鞭を執り 大正4年に神戸第一中学校をやめてからは 郷里の柏原に戻り 丹波郷土史の研究に没頭し 多くの文人・墨客とも交わり「氷上郡志」 「柏原町史」などの編纂や「丹波人物志」「丹波史年表」「右剣左筆」「兜山余芳」など多くの 書物も著しました また拳堂の描く達磨の絵は趣味人の間でも定評があり 高浜虚子や 日置黙仙、犬養毅など 多くの名士たちが喜んで賛を書き入れました 彼が初めて 達磨を書いたのは 神戸第一中学校に在職していた時に 生徒から依頼されて扇子に 達磨の絵を書いたのが始まりだそうです やがて これら多くの功績が認められて 昭和35年には兵庫県文化賞を受賞され 昭和45年3月8日 94歳で亡くなりました (丹波資料室HPより) ※ |
八幡宮へ向かいます。 ※横なんですがね。 |
八幡フォント ※高岡製の奉納馬 |
摂社 猿田彦神社 ※緩い目の太鼓橋 |
氷上育英会創設記念碑 皇紀2600年銘 |
35m程上ります。 あーシンド! ※千種字佐美翁頌徳碑 石清水八幡宮宮司さんの筆 全国八幡宮連合 |
安東縣 満州に在った縣 ※多くの玉垣 |
大きなモミの木 ※檜皮葺が見事な 八幡宮に到着 |
手水舎 ※早速会えました。 |
丹波佐吉作 狛犬 阿 ※吽 |
尻尾も躍動的に ※まださんと行った 摩気神社さん思い出しながら〜 自由奔放と円熟味の対比 |
顔の造作も違いますが こちらの方が円熟味が有ります。 阿 |
吽 拝殿社と共に ※作者名も綺麗に〜 |
まるで実物を見ながら制作したような意匠。 ホンマ、まださん会いたかったでしょうね。 阿 ※吽 |
職人のニヤリが〜 ※ |
絵馬堂にて ※ここの風景かと思えば〜 三重塔が無い。。 |
右は昭和10年相撲番付け 左は〜読めない。。。 ※右は大正9年相撲番付け 左は青森県横綱鏡里から昭和32年 鏡里引退の前の年 |
昭和45年 倦鳥新社 おさんの森青々師句碑建設記念句会 山辺わたり茂兵衛を鳴くや時鳥 青々 ※大筒も奉納されています。 |
近江八景みたい ※檜皮葺拝殿舎 |
36歌仙 ※? |
柏原音頭 昭和6年 一で二と無い 木の根の橋を 渡利なされよ2人連れ 二で二の字の下駄の跡 雪の朝の 田すて女 三で咲いたよ桜の名所 丹波吉野は鐘が坂 四で四面の甘南備山は主其の お歌で名が高い 五で御所柿味うて あがれ 御所へ 献けたこともある 六で六十余州の名所 鬼のかけ橋めずらしや 七で七個の七大歳めぐりたえぞへ手をひいて 八で八幡厄除神社 厄をのがれて礼まつり 九で葛原親王祀る 宮は小倉の刈野宮 十で殿様 勤王の織田家 明治維新で名を揚げた 昭和5年安井喜兵衛作詞に近いですが〜 ※youtubeのと違いますね。 どなたか教えてくれませんか? |