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海に向かって〜 ※此処も環濠 |
明治期には水族館も有った、大浜公園横目に〜 昔の海岸線辺り〜 ※自動車優先道路行政の回り道 |
阪神高速4号湾岸線 大浜出入り口付近 ※懐かしい海辺の景色 |
綺麗な堺灯台 工場塀に南蛮船の到着風景が描かれています。 ※公園整備も〜 |
此処から世界に繋がっていたのですね。 ※旧堺灯台碑 |
「自由都市」と堺港 堺がヨーロッパ人に知られるようになったのは、 1549年フランシスコ・ザビエルが日本へ来てからのことです。 その後、イエズス会の宣教師たちが相ついで堺を訪れ、本国へ向け堺の情報を伝えました。 そうしたなかで、彼らにとって堺港は、アジア海域の船がみんな集まってくる 「東洋のベニス」のように、繁栄した国際貿易港としてイメージされました。 (堺市HPより) ※ |
何やら〜 ※浪漫やさかい〜 |
石垣も綺麗に〜 ※ハイポーズ! |
旧堺港 大和川付け替え後に 土砂が流れ込んで航路が浅くなり 大型船が入れなかったとか。 付け替えがなければ、神戸港のようになったでしょうかね? ※龍女神像 第5回内国勧業博覧会大阪市天王寺を第1会場に、 堺大浜公園を第2会場(水族館)として、 明治36年(1903)に開催された。 |
夕日の中にヨットやクルーザーも〜 ※我々も〜 |
明治期には北公園が 在ったとか。 中世に海外貿易港として発展した堺港は大和川の付け替えで衰退、 江戸商人吉川俵右衛門などが築港・修理したのが堺旧港の原型。 (堺観光ガイドより) ※ |
環濠と海を隔てる水門 津波が入らぬように頑張ってや! ※水路的には昔と変わっていない。 |
明治初年佛人撃攘之處碑 大正期の石碑ですね。 堺(現在の堺市堺区栄橋町1丁の土居川沿い、当地に堺事件の碑とならんで「天誅組上陸地」の碑が建てられている) に到着した同志一行(以降、天誅組と記す)は翌16日払暁に高野街道を通って河内をめざし、狭山に入った。 天誅組は吉村らを軍使として狭山藩の陣屋へ送り、先代藩主で隠居の身であった北条氏燕との面会を申し出た。 氏燕は急病と偽って面会を断り、家老朝比奈縫殿が代って対応する。忠光は朝比奈に狭山藩も出陣して義挙に加わるよう命じた。 対応に苦慮した狭山藩はとりあえず天誅組にゲベール銃など銃器武具を贈り、天皇親征の節には加わる旨を回答する。 天誅組は下館藩の飛び地である白木陣屋にも使者を送り、銃器武具を差し出させている。 天誅組は菊の御紋の入った旌一流、「七生賊滅天後照覧」と大書された幟一本をつくり、士気を高めた。 (Wikipediaより) |
前には〜 天誅組の足跡も… |
年代別にひっそりと〜 ※ |
堺市駅前に帰ってきました。 ※ |