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阪奈道路脇の側道〜 ※南へ〜 大昔は波打ち際だった?? |
元、春日神社目指して! ※山際にひっそりと〜 |
善根寺(P.8諸福)まで境内地が 在ったんですかね? 社伝に依れば、 枚岡神社の分霊を大和の春日に遷座するのに 供奉した25人が河内に立ち帰り、 此の地に春日四神を勧請したのが始まりとか。 此の25人から宮座が発展したとか。 ※ |
本日十四社目 前にも〜 ※神社では、10月15日の『おだいつ祭り』のための神酒をつくる造酒神事が10月1日に行われます。 造酒用の清水は、東方山腹にある龍の口と呼ばれる所から汲まれ、宮座の神事としてとり行われます。 本殿の南側には、造酒斉殿があり、道具類と共に市の民俗文化財に指定されています。 (東大阪市の歴史と文化財2による) |
大きな磐座 ※流石〜元春日! 鹿の石像 前にも〜 |
稲荷社の眷属さん(狐)は 別嬪さんで〜 ※ |
境内 |
元春日扁額 ※おきよ石 はるばる宮崎県から運ばれて奉納されたとか。 1940年(昭和15年)神武天皇の東征2600年を記念して 「おきよ丸」なる古代船を復元し、宮崎より大阪に向け航海した。 其の時に積まれて運ばれた、この石が神武天皇上陸と縁の深い この春日神社に設置されたとか。。 拝殿社の内部で、立ち入ることが出来ずに読みにくいです。 |
古戦場跡碑 ※まぁ〜 先住の人にしたら侵入者ですもんね。 大阪湾に入ってきた神武天皇は、生駒越えで大和に入ろうとし、 これを知った長髄彦は当地孔舎衛坂で迎え撃ってこれを撃退。 神武軍は兄の五瀬命が肘に流れ矢が当たり負傷し、退却を余儀なくされたという。 盾津・チヌの海の由来 |
※唐臼が在りました。 |
善根寺の原始蓮 ※少し早い時期 |
神武天皇上陸の盾津の碑 ※バックの真ん中の石材は 国旗掲揚台 |
神武天皇聖蹟盾津顕彰の碑 住宅地の中に… 前には〜 ※此処から頑張って 前に来た 川澄家の前に向けて〜 |
三箇キリスト教の名残か? キリシタン灯籠〜 本日十五社目 ※綺麗な唐臼も〜 |
前にも訪れました。 ※遊具好き! 動きませんで!! |
西国河内 第28番霊場 大龍禅寺さん 郷学校跡(正法寺・大龍寺)大龍寺 明治政府は、明治5(1872)年8月明治維新後廃藩置県、徴兵令、地租改正などの 富国強兵策の一つとして「学制」を公布し国民教育を推し進めた。 学制に先立って河州河内郡日下村、芝村、植附村、神並村、喜里川村、六万寺村の 6ケ村連名の「郷学校開設」の申請が堺県に出され許可されている。 明治4年5月には、正法寺(現存せず)において教師2名、生徒数百名ほどでスタートした。 当時、「郷学校」を開設した村、地域は殆どなく、 この6ケ村住民の子どもたちの教育への願いと期待の大きさと共に、文化の高さが伺える。 明治5年7月には、生徒数も増え近くの大龍寺に移っている。 (歴史と街かどHPより) ※先へ進んだところから あべのハルカスが見えました。 春霞?PM2.5? |
幼き頃の話も〜 ※標高を稼いだ所に 丹波神社サン 本日十六社目 大坂西町奉行に任ぜられ 日下村の領主となった曽我部守古祐(ひさすけ)をまつっています。 万治元年(1658)にこの地で没するまで、 村のために用水地に普請や治山治水の工事を領主の負担で行い、 村人に有利な検地を行うなどの善政に対し、 村人の感謝のしるしとしてこの地でまつられています。 (東大阪市文化財ガイドマップより) |
境内 お百度石が二箇所で この間を回るんですね。 ※太鼓台置き場 日露戦没記念碑 |
力石〜 |