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なにわの春は野崎参りから〜
元春日神社、神武天皇の足跡、石切神社まで…
フルメンバーポタ
善根寺〜孔舎衙(12)

久々のフルメンバーポタは
上方落語の3代目桂春団治氏の十八番
思い出しながら〜
えっ?浮ドン
野崎参りは東海林太郎氏??
歌かいな〜〜汗

※マウスポインターを置いてください。 

                                           撮影:平成26年05月03日
                                           UP日:平成26年05月10日

阪奈道路脇の側道〜

※南へ〜
大昔は波打ち際だった??

元、春日神社目指して!

※山際にひっそりと〜

善根寺(P.8諸福)まで境内地が
在ったんですかね?

社伝に依れば、
枚岡神社の分霊を大和の春日に遷座するのに
供奉した25人が河内に立ち帰り、
此の地に春日四神を勧請したのが始まりとか。
此の25人から宮座が発展したとか。



本日十四社目
前にも

※神社では、10月15日の『おだいつ祭り』のための神酒をつくる造酒神事が10月1日に行われます。
造酒用の清水は、東方山腹にある龍の口と呼ばれる所から汲まれ、宮座の神事としてとり行われます。
本殿の南側には、造酒斉殿があり、道具類と共に市の民俗文化財に指定されています。
(東大阪市の歴史と文化財2による)


大きな磐座

※流石〜元春日!
鹿の石像
前にも

稲荷社の眷属さん(狐)は
別嬪さんで〜



境内

元春日扁額

※おきよ石
はるばる宮崎県から運ばれて奉納されたとか。
1940年(昭和15年)神武天皇の東征2600年を記念して
「おきよ丸」なる古代船を復元し、宮崎より大阪に向け航海した。
其の時に積まれて運ばれた、この石が神武天皇上陸と縁の深い
この春日神社に設置されたとか。。
拝殿社の内部で、立ち入ることが出来ずに読みにくいです。

古戦場跡碑

※まぁ〜
先住の人にしたら侵入者ですもんね。
大阪湾に入ってきた神武天皇は、生駒越えで大和に入ろうとし、
これを知った長髄彦は当地孔舎衛坂で迎え撃ってこれを撃退。
神武軍は兄の五瀬命が肘に流れ矢が当たり負傷し、退却を余儀なくされたという。

盾津・チヌの海の由来



※唐臼が在りました。

善根寺の原始蓮

※少し早い時期

神武天皇上陸の盾津の碑

※バックの真ん中の石材は
国旗掲揚台

神武天皇聖蹟盾津顕彰の碑
住宅地の中に…
前には

※此処から頑張って
前に来た
川澄家の前に向けて〜

三箇キリスト教の名残か?
キリシタン灯籠〜
本日十五社目

※綺麗な唐臼も〜

前にも訪れました。

※遊具好き!
動きませんで!!

西国河内 第28番霊場 大龍禅寺さん
郷学校跡(正法寺・大龍寺)大龍寺
明治政府は、明治5(1872)年8月明治維新後廃藩置県、徴兵令、地租改正などの
富国強兵策の一つとして「学制」を公布し国民教育を推し進めた。
学制に先立って河州河内郡日下村、芝村、植附村、神並村、喜里川村、六万寺村の
6ケ村連名の「郷学校開設」の申請が堺県に出され許可されている。
明治4年5月には、正法寺(現存せず)において教師2名、生徒数百名ほどでスタートした。
当時、「郷学校」を開設した村、地域は殆どなく、
この6ケ村住民の子どもたちの教育への願いと期待の大きさと共に、文化の高さが伺える。
明治5年7月には、生徒数も増え近くの大龍寺に移っている。
(歴史と街かどHPより)


※先へ進んだところから
あべのハルカスが見えました。
春霞?PM2.5?

幼き頃の話も〜

※標高を稼いだ所に
丹波神社サン
本日十六社目
大坂西町奉行に任ぜられ
日下村の領主となった曽我部守古祐(ひさすけ)をまつっています。
万治元年(1658)にこの地で没するまで、
村のために用水地に普請や治山治水の工事を領主の負担で行い、
村人に有利な検地を行うなどの善政に対し、
村人の感謝のしるしとしてこの地でまつられています。
(東大阪市文化財ガイドマップより)


境内
お百度石が二箇所で
この間を回るんですね。

※太鼓台置き場
日露戦没記念碑

力石〜
東日本大震災、台風・豪雨水害被害で被災された方々に、
お見舞い申し上げます。
マー君だけ転勤で、お休み〜
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